陽明門を視るピエール・ロティ

東照宮の近代―都市としての陽明門

東照宮の近代―都市としての陽明門

内田祥士は『東照宮の近代』で、明治時代の「外国人」が東照宮に注いだ眼差しの例として、イギリスの外交官アーネスト・サトウと、フランス海軍士官であり後に作家となるピエール・ロティの文章を対比させている。サトウが歩くにつれて眼に飛び込んでくる事物を説明的に書き留めていくのに対し、ロティは陽明門を固定された視点から「目の指で撫でる」ように描写していく。

この屋根裏は樋のやうに突き出ている一群の《狛犬》や龍や火籠などで支へられている。さうしてこれらのものは互にその上その上へと隙のない六列に積み重なつている。それは鋭い爪をした角の生えた、邪悪な一群である。それはまた満身の怒りのためにそこに凝縮してしまつた黄金の悪夢とも云ふべきものである。さうして今にも離れ離れになつて飛び下りかねない気勢を示す集団のやうに、高みで溢れ出ている。その口という口が打ち開き、牙という牙が露出し、爪という爪が立ち、頭という頭が下方にかがみ、さうして敢へて近づいて来ようとする者を一層よく見極めようとするやうに、その円い大きな眼球は眼窩から飛び出ている。
(ピエール・ロティ『秋の日本』168-169ページ:内田上掲書、52-53ページより再引用。)

ここでのロティの眼差しのあり方は、19世紀仏文学の一つの傾向を体現しているようにも思える。偏執的かつ触覚的な視のあり方。例えばテオフィル・ゴーティエや、ロティとほぼ同時代を生きたJ.K.ユイスマンスである。レミ・ド・グールモンユイスマンスを「一つの眼である」と讃えている。このような「視覚」のあり方は、同時代の他国の文学にも存在していたのだろうか?