陽明門を視るピエール・ロティ
- 作者: 内田祥士
- 出版社/メーカー: ぺりかん社
- 発売日: 2009/06
- メディア: 単行本
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この屋根裏は樋のやうに突き出ている一群の《狛犬》や龍や火籠などで支へられている。さうしてこれらのものは互にその上その上へと隙のない六列に積み重なつている。それは鋭い爪をした角の生えた、邪悪な一群である。それはまた満身の怒りのためにそこに凝縮してしまつた黄金の悪夢とも云ふべきものである。さうして今にも離れ離れになつて飛び下りかねない気勢を示す集団のやうに、高みで溢れ出ている。その口という口が打ち開き、牙という牙が露出し、爪という爪が立ち、頭という頭が下方にかがみ、さうして敢へて近づいて来ようとする者を一層よく見極めようとするやうに、その円い大きな眼球は眼窩から飛び出ている。
(ピエール・ロティ『秋の日本』168-169ページ:内田上掲書、52-53ページより再引用。)
ここでのロティの眼差しのあり方は、19世紀仏文学の一つの傾向を体現しているようにも思える。偏執的かつ触覚的な視のあり方。例えばテオフィル・ゴーティエや、ロティとほぼ同時代を生きたJ.K.ユイスマンスである。レミ・ド・グールモンはユイスマンスを「一つの眼である」と讃えている。このような「視覚」のあり方は、同時代の他国の文学にも存在していたのだろうか?