ヴァレリー集成? (ヴァレリー集成(全6巻))

ヴァレリー集成? (ヴァレリー集成(全6巻))

ぴんと張られた幕の上では、常に何もない平面の上では、生命も血液さえも痕跡を残さないが、どんなに込み入った出来事でさえ望む限り何度でも再現できる。
さまざまな行為は急がせることも遅らせることもできる。できごとの起きた順序は覆すことができる。死人たちは生き返り、笑い出す。
各人が自分の眼で、そこにあるあらゆることが表面的であるのを目にする。
かつて光であったすべてのものが、通常の時間の流れから取り出される。そのことは暗闇のただ中で生じ、そして繰り返し生じる。現実の正確さが夢のすべての特性を帯びるのを目にする。
それは人工的な夢である。それはまた外部の記憶であり、機械的な完璧さを付与された記憶である。最後に言えば、ここでは停止と拡大の手段によって、注意力そのものが表現される。
私の心はこのようなさまざまな不可思議によって分裂状態である。
ポール・ヴァレリー「映画術」(初出1944年)、上掲書、410ページ。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

クローズ・アップによって空間が、スローモーションによって運動が引き伸ばされる。拡大撮影というのは、〈これまでも〉不明確になら見えていたものを、たんに明確にすることではなく、むしろ物質のまったく新しい構造組成を目に見えるようにすることである。同様にスローモーションは、たんに運動の既知の諸要素を目に見えるようにするだけでなく、この既知の要素のなかに、まったく未知の要素を発見する。これらは「早い運動がゆっくりしたものになったというのではなく、奇妙に滑るような、漂うような、この世のものならぬ運動といった印象を与える」。したがって、カメラに語りかける自然が、肉眼に語りかける自然と異なることは明白である。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れるのである。[…]このような[引用者補記:人間の通常の視覚では認識できない]箇所にカメラはもろもろの補助手段――カメラ角度の上げ下げ、中断と隔離、経過の引き伸ばし〔スローモーション〕と圧縮〔クイックモーション〕、拡大〔アップ〕と縮小〔ロング〕――を用いて切りこんでゆく。視覚における無意識的なものは、カメラによってはじめて私たちに知られる。それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて私たちに知られるのと同様である。
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(1935-36年成立)、上掲書、619-620ページ。