盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟

シャルダンの自画像においては]今度は目ではなく、頭に布が巻かれている。この言葉は常に、怪我のことを考えさせる。顔にじかに触れながらもそこに属さないこのヘアバンドや眼鏡は、身体本体からフェティッシュのように分離可能でありながら、これらの自画像の、輝かしい、もっともあらわな代補なのである。こうした物たちは、見る者の注意を、同じほど拡散もし、また集中もさせる。こうした物たちにおいて、顔が裸形で現れるというのではない。それだけはどうしてもありえない。このことが、もちろん、裸であるという、まさにそのことの仮面を剥ぐのである。それが裸で現れる、裸を見せると呼ばれる事態であり、羞らいなくしては、ヴェール、ガラス、衣服の技巧なくしては、裸体は何ものでもない。
(上掲書、93ページ)

仮面はすべてを覆い隠す、ただ(仮面の発揮する嫉妬深い魅惑はここに由来する)裸形の目だけをのぞいて。顔の部分で目だけが見えており、それゆえ同時に見てもいる。目だけが生命の通った裸形の徴であり、老化と廃墟化を免れていると信じられている。その次に、死。どんな仮面もデスマスクを予告する、仮面はつねに、彫刻および素描の特質を分有する。最後に(以上の帰結として、この準超越論的演繹は、神話も、出来事も、あるいは固有名詞もなんら必要としない)、「メドゥーサ化する」効果。仮面は目を、切断された顔の中に呈示するが、このような顔は、石化した客体性を、死あるいは盲目を、おのれ自身が意味するということを見ることなしには直視できない。
(上掲書、93-100ページ)