分断された身体について
- 作者: ジョルジョ・アガンベン,岡田温司,栗原俊秀
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2012/05/27
- メディア: 単行本
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例えば、ウフィツィ美術館で目にしたヘルマフロディトス像の記述と、『ジュリエット物語』に登場する類似の描写を比べると、後者は前者の流用であるにも関わらず、眼差しのあり方が違うのが分かる。後者で露骨な臀部への執着が、前者には全く登場しないのだ。
【イタリア紀行】
この部屋からはヘルマフィロディトスの部屋に通じています。伯爵夫人よ、ご存知の通りローマ人はその放蕩により、この種の怪物にまで逸楽を求めました。これは等身大で、腹部あるいは脇腹を下に横臥し、腕で体を支えています。この姿勢は、すっかり成熟した女性の乳房を露にしています。また腿はわずかに交差し、女性のもう一つの特徴を完全に覆っている一方で、男性の特徴は露骨です。その身体は美しく、崇高な比例には最も偉大な写実性があります。
(拙訳)
De cette pièce on passe dans celle d l’Hermaphrodite. Vous savez, Madame la comtesse, que l’intempérance des Romains osa chercher la volupté jusque dans ces espèces de monstres. Celle-ci est de grandeur naturelle, couché sur le ventre, un tant soit peu pourtant sur le côté ; il est appuyé sur ses bras, attitude qui laisse apercevoir une gorge de femme très formée ; les cuisses sont un peu croisées et cachent absolument l’autre distinction du sexe féminin ; celle du masculin y est fortement exprimée ; le corps est beau et les proportions sublimes paraissent de la plus grande vérité.
(D.A.F. de Sade, Voyage d’Italie précédé des premières œuvres, suivi des opuscules sur le théâtre, publiés sur les manuscrits autographes inédits par Gilbert Lély et Georges Daumas, Paris : Tchou, 1967, p. 156.)
【悪徳の栄え(ジュリエット物語)】
私の視線はヘルマフロディトスの像に目を向けました。[…]皆さんもご承知のとおり、性的な怪物に夢中だったローマ人たちは遊蕩の宴会に好んでそうした人間を参加させたのです。この双成りの像はその道で名声を博していた実在の双成りの一人をモデルにしたものでした。しかし、彫刻家がその像の両脚を交差させて両性具有の特徴を隠そうとしたのは全く残念でした。その双成りは寝台の上に横になって、この世で最も美しいお尻……最も官能をそそるお尻をあらわにさせています……
(『ジュリエット物語』第4部、佐藤晴夫訳、578ページ。)
Mes yeux se portèrent de là sur l’hermaphrodite ; Vous savez que les Romains, tous passionnés pour ce genre de monstres, les admettaient, de préférence, dans leur libertines orgies ; celui-là, sans doute, est un de ceux dont la réputation lubrique fut la mieux étable ; il est fâcheux que l’artiste en lui croisant les jambes, n’ait pas voulu laisser voir ce qui caractérisait le double sexe ; on la voit couchée sur un lit, exposant le plus beau cul du monde […] et qu’il n’était pas de plus délicieuse jouissance au monde.
(Id., Histoire de Juliette, ou les Prospérités du vice, dans Sade, Œuvres, tome III, Pléiade, 1998, p. 731.)
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サドと同時代において身体観と時間意識を規定したものに、ギロチンがあるだろう。しかしサドの場合は、「全体から切り離されて断片化した身体」(e.g.ジェリコーの描く身体断片)ではなくて、認識の枠組自体がはじめからpartialで統合を拒絶している。身体部位の習作(あらかじめ部分として眼差された身体)は、結果としてジェリコーのタブロー(全体から切断された身体)に似てしまいがちだが、サドの場合は前者の認識に属しているように思う。
テオドール・ジェリコー「切断された四肢の習作」1817-1818年
ジャン=バティスト・ジュヴネ(Jean-Baptiste Jouvenet)「手足の習作」
http://www.beauxartsparis.fr/ow2/catzarts/voir.xsp?id=00101-16149&qid=sdx_q0&n=7&sf=&e=#
(Beaux-arts de Paris, l'école nationale supérieureのオンライン・アーカイヴズから)
サドは、先行する世代(断片をモンタージュするピラネージ、古代ギリシアの身体に完全性を求めるヴィンケルマン、廃墟に過去を観想する一連の心性など)とは異なり、「失われた完全性・統一性の回復」などははなから意図していない。ヴィンケルマン(1717-1768)はEinfalt(単一)を求め、ピラネージ(1720-1778)は断片を断片のままに集積させたが(統合的かつ単一の全体性は回復されないが、一つの集積体は生成している)、サド(1740-1814)に至ってはもはや部分が部分のままに現前するのみである。
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『悪徳の栄え』に出てくるミンスキーの城館への道行きと、『ソドムの百二十日』のシリングの城館への道程は、ダイアグラム化してみると構造的にほぼ同一と分かる。険しい山岳地帯を長時間掛けて越え(ここで「崇高な自然」が登場)、何重にも巡らされた堀や城壁を過ぎ、最後には城館内の地下牢(隠れ処)に達する。フリーメイソンの入信儀礼に類似した行程が、犠牲者にとっては死出の旅となる。
サド(後期の小説群)において、当初から断片としてのみ存在する身体と対置されるのが、空間描写(必然的に時系列の記述にもなる)の緻密さ・冗長さがもたらす連続性なのではないか。これではあまりにも予定調和的すぎるだろうか。