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- 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,佐藤嘉幸
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2013/06
- メディア: 単行本
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何と言っても、子供は長い時間をかけて自分が身体を持つことを知るようになる。数ヶ月の間、一年以上の間、子供は四散した身体、手足、腔窩、開口部しか持たないのであり、それらすべては組織化されておらず、鏡のイメージにおいてしか文字通り具象化していない〔=身体の姿を取っていない〕。さらには奇妙な仕方で、ホメロスのギリシャ人たちは、身体の統一性を指し示す語を持っていなかった。いかに逆説的であろうと、トロイの前では、ヘクトルとその仲間たちによって護られた城壁の下では、身体は存在せず、上げられた腕が、勇敢な胸が、軽快な足が、頭の上の輝く兜が存在したのだ。つまり、身体は存在しなかったのである。身体を意味するギリシャ語は、ホメロスにおいては、死体を指し示すためにしか現れない。それゆえ、この死体こそが、この死体と鏡こそが、私たちに教えてくれるのである[…]自らが身体を持ち、この身体は一つの形を持っており、この形は一つの輪郭を持っており、この輪郭においてのみ厚み、重さが存在することを、つまり、身体が一つの場所を占めることを。鏡と死体こそが、身体の根本的かつ本来的にユートピア的な経験に一つの空間を与えてくれる。鏡と死体こそが、絶えず私たちの身体を破損させ消滅させるかの偉大なユートピア的猛威を沈黙させ、宥め、囲い――それは今、私たちに対して堅く閉ざされている――の中に閉じ込めるのだ。
(上掲書、28-29ページ)
西欧の18世紀において、サド作品(享楽の接近に際して隣人の身体は分断される byラカン)やギロチン、解剖学などによって「断片としての身体」が見出されたのではなく、むしろアプリオリなものとして「統一的な身体」があるという発想の方が、特定の時代から共有されはじめた信(幻想とまではいわずとも)なのかもしれない。