映画というものにとって、サドの作品ほど示唆に富んだものもないと思います。その理由として、サドの描く場面にはいつもサド特有の綿密さ、儀礼、厳格な儀式形式といったものがあって、これが余計なカメラワークを一切受け付けないということがあります。ほんの僅かな補足や省略も、ごく些細な装飾も許さない。自由な幻想は存在せず、あるのは予め周到に編まれた規則のみ。一つでも足りないとか、余計に重複するとかしたが最後、全部が駄目になってしまう。空白部は欲望と身体でしか満たされ得ないんです。
ミシェル・フーコー「サド、性の法務官」(G. デュポンとの対話、初出1976年)、『ミシェル・フーコー思考集成V』465ページ。)

この部分の前提にあるのは、パゾリーニ監督の『ソドムの市(原題:サロ、あるいはソドムの百二十日)』(1975年)である。フーコーはこの映画作品を、とりわけナチズムとサディズムの結合を批判的に捉えている。一般化は決してできない特殊な事例だが、テクストから映画への翻案関係の一例として考えることもできるだろう。あるいは映像化を拒むテクストの?

最近の映画での身体の扱い方は従来とは全く違った新しいものです。ウェルナー・シュレーターの「マリア・マリブランの死」〔1972年〕に出てくるキスシーンとか、顔、唇、頬、瞼、歯なんかを見てみて下さい。あれをサディズムと呼ぶのは、私に言わせれば全くの見当違いです。もっとも最近ブームになっている、部位的対象だの分断された身体だの歯牙状のワギナだのを問題にする精神分析の目を通してみるというんであれば話は違いますがね。[…]それは身体の可能性の拡大、芽生えであって、身体のほんの僅かな部分、その細部の持つごく僅かな可能性を自由に開花させることなんです。そこでは身体の言わばアナーキー化が見られ、上下関係、位置関係、名称など、要するに有機性と呼べるようなものが徐々に崩れ去っていく。ところがサディズムでは、器官があくまで器官として執拗な攻撃の対象になる。お前の持つその物を見る眼を俺がえぐり取ってやる。俺が噛んでくわえているお前の舌を噛みちぎってやる。そうなればもう何も見えず、もう食うことも喋ることもできまい、という具合にね。サドの描く身体はまだまだ非常に有機的で、そういう階級制にどっぷりと漬かっています。もちろん、昔の寓話のように階級が頭部から始まるんじゃなく、性器から始まる違いはありますがね。
(同上、466ページ。)

ここでフーコーラカンによる有名な一節「寸断された身体」を、サドの理解としては不適切なものとして斥けている。もっとも、フーコーがサドにおける「身体の切断」として想定しているのは、作中で起こる文字通りの身体への攻撃のなされ方であり、例えば秋吉良人(『サド:切断と衝突の哲学』)が指摘するような(そしてサドの祖先ペトラルカのソネットとも共通するような)テクストによる身体の描写がもつ「断片性」とは、異なる次元の話であるように思われる。

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