啓蒙主義時代の「婚姻」観とサド、そしてルドゥ

ルドゥの「オイケマ」案(放蕩を通過儀礼として青年に経験させることで、道徳的な結婚へと導く)やサドとの関連で、啓蒙思想期の「婚姻」論をおおまかに押さえておきたいのだけど、下手な問いの立て方をすると迷宮から出てこられなくなりそうだ。
ひとまず自分の知識の範囲内にある「入り口になりそうなもの」は、J.F. ツェルナーの1783年の論文、カントの『人倫の形而上学』(婚姻契約説、性器の占有的使用契約……)、それから法的結婚の保護が固いというフランス民法典(コード・ナポレオン)の婚姻観くらいである。
カントの「婚姻契約説」は、結婚を神との関係で捉え教会の権限内とする発想への否定(=ラディカルな啓蒙主義)として理解しうるのだろうか? それを検討するにはカントの神学観を考慮しなくてはならないから、手を広げすぎる羽目になるか。ざっと調べると、カントは『実践理性批判』と『理性の限界内における宗教』で、神と道徳について論じているらしい。しかし「神」という概念をどう捉えるかと、当時の現実の宗教的権威とどのように向き合うかはまったく別問題なので、これらの著作を読んだところで、後者の問いについても答えが得られるという保証はなさそうだ。


啓蒙の運命

啓蒙の運命

ちなみに、ツェルナーなどというマニアックな固有名詞が登場したのは、上掲書籍の第1章に収められた吉田耕太郎氏の論文「「啓蒙の時代」の「啓蒙への問い」」をたまたま読んだからである。そのなかの、メンデルスゾーン「啓蒙するとは何であるか?という問いについて」(1784年9月)やカント「啓蒙とは何かという問いへの回答」(1784年12月)という代表的な啓蒙論が書かれる発端となったのは、ツェルナーの論文「婚姻締結を、宗教によってもはや神前で認可しないことは、賢明なことであろうか?」(『ベルリン月報』1783年12月号掲載)であった。これは匿名子(ノルベルト・ヒンスケは『ベルリン月報』の編集者ビースターと同定している)による論考「婚姻に際して、聖職者たちがもはや関与しないことの提言」(『ベルリン月報』1783年9月号掲載)への反論として書かれている。ツェルナーはこの論文の文末註で、「啓蒙とは何か」という自己言及的な問いを投げかけた。
匿名子とツェルナーの論文で焦点となったのは、「婚姻締結は教会権威の領域か、それとも他の民事契約同様、国家という政治的共同体の枠内にあるのか」という問いであった。前者を否定する匿名子に対し、ツェルナーは社会的秩序を維持する手段としての宗教的権威に一定の役割を認め、啓蒙主義に一定の制限を課そうとする。

興味深い一致として、婚姻締結を扱ったふたつの論文が発表された1783年には、メンデルスゾーンの寛容論『イェルーザレム』も発表されていた。[…]またこの『イェルーザレム』のなかでは婚姻についての言及もみられる。メンデルスゾーンは、婚姻を、家政の維持や子供の育成といった諸義務を自然に発生させる契約であり、それは人間の幸福に寄与するものであるとし、締結に際しては国家や教会の権威付けは必要ないと論じている。このように寛容論を後背において、あらためて婚姻論争を読み直してみると、婚姻を他の契約同様に扱おうとする匿名の論文は、ドーム[『ユダヤ人の市民的な向上について』(1781年)における、キリスト教徒とユダヤ教徒に同一の法規を適用し、共に国家構成員として取り込むという「寛容」の立場]のように宗教的対立をより大きな国家権力によって解消しようとする立場をとるものであり、他方のツェルナーの主張は、宗教的な寛容を極度に押し進めようとする立場に対して否定的な立場を表明するものとして整理することができるだろう。
(上掲書、22ページ。)

「人間としての人間にとって有益なある特定の心理が、市民としての人間にとっては時には害悪となることもある」。このようにメンデスゾーンが啓蒙の制限として取り上げていたのも、人間の啓蒙と市民の啓蒙との間のコンフリクト、つまり啓蒙が、〈人間としての人間〉という当時の身分制を取り払ったユートピア的でかつ反社会的な状態を志向することから生じる問題であった。メンデルスゾーンの言葉をそのまま引用すれば、「啓蒙の誤用は、道徳的な感覚を麻痺させて、無関心が広まり他者を省みることもなくなり、無宗教アナーキーに帰着することになる」のだ。
この人間の使命と市民の使命との間のコンフリクトに、婚姻論争と同じ争点が透けてみえることは否定できない。婚姻締結に宗教的な権威は不要であるとした匿名(ビースター)の主張に対して、ツェルナーがまず擁護したのが、社会性を維持してきた紐帯としての宗教的権威の役割であった。宗教を啓蒙の名の下に断ち切ることの危険性についてのツェルナーの議論を繰り返す必要はないだろう。[…]寛容論では激しい調子で筆をとったメンデルスゾーンも、啓蒙論では、ツェルナーに近い、既存の社会秩序の維持を指示する立場へと舵をきっているとまとめることができる。
(上掲書、24ページ。)


婚姻をめぐる議論には、キリスト教的な道徳や権威への問い、また国家という政治的共同体とその「法」をめぐる問いとが反映されているだろう。拙速に仮説的な結論を出すならば、サドは従来的な宗教的結婚観も、カント(能力と性器の排他的相互使用契約)やコード・ナポレオン的な婚姻(国家の定める法律において固く保護された一夫一妻制度)も否定している。他方でルドゥにおいては、キリスト教的道徳観は(少なくとも明示的には)存在していないように思われる。サドは真っ向から「反対の価値観」をぶつけることで、逆説的にキリスト教的道徳の存在を炙り出してしまうが、ルドゥにあっては端的に「不在」なのだ。『建築論』の「オイケマ」構想の部分で登場する「結婚の神」(≒美徳の象徴)も、キリスト教上の「神」などではなく、異教的古代のヒュメーンである。表面的には「婚姻の美徳」を賞賛しているように見えるルドゥの方が、実はサドよりラディカルなのかもしれない。