思考の屑篭

書物としての建築物

 ユゴーによる長篇『ノートルダム・ド・パリ』は、建築物の表面に刻まれた文字の描写から始まる。
◇引用開始
五、六年まえのことだが、この物語の作者がノートル=ダム大聖堂を訪れたとき――いや、さぐりまわったときと言ったほうがいいかもしれないが――、作者は、塔の暗い片隅の壁に、つぎのようなことばが刻みつけられているのを見つけたのである。
ΑΝΑΓΚΗ(宿命)(註71)
◇引用終わり
「書物=建築物」のアナロジーは、すでにこの冒頭において宣言されている。ユゴーにとってこの小説は、「消滅」の予感を抱きつつ――「あのことばをあの壁に書きつけた人間は、何世紀もまえに世代の波間に消えてしまったし、あのことばも、その後聖堂の壁から消え失せてしまった。聖堂そのものも、そのうちには、おそらくこの地上から消えさることであろう(註72)」とユゴーは言う――書物の中に、あるいは「書物として」、大聖堂を建てる試みであった。フロロ司教補佐の口を通して語られる有名な一節は、このことを雄弁に明快に物語っている。
◇引用開始
「いやはや!先生の言われる書物とはいったいなんのことなのですか?」
「ここにその一冊が見えます」と司教補佐は答えた。
そして部屋の窓を開けると、ノートル=ダムの巨大な聖堂を指差した。[…]司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建築物をながめていたが、やがて溜息をひとつつくと、右手を、テーブルにひろげてあった書物のほうへ伸ばし、左手を、ノートル=ダム聖堂のほうへ差し出して、悲しげな目を書物から建物に移しながら言った。
「ああ!これがあれを滅ぼすだろう」(註73)(図20)
◇引用終わり
その直前では、ファサードや外観からその来歴を解読・推測する、いわば建築物の「観相学」ともいうべき方法が、「文字を読むこと」の比喩を用いつつ説かれていることも、忘れてはならない。
◇引用開始
司教補佐はトゥーランジョーのほうを向いて、ことばをつづけた。[…]「だが手はじめにまず、大理石につづられたアルファベット文字、つまり秘密の書物の石のページともいうべきものを順々に読む方法をお教えしましょう。ギヨーム司教の正面玄関やサン=ジャン=ル=ロンの正面玄関からサント=シャペル礼拝堂へ、それからマリヴォー通りのニコラ・フラメル邸へ、つぎにサン=ジノサン墓地にある彼の墓へ、モンモランシ通りの彼の二つの施療院へとご案内しましょう。(註74)
◇引用終わり
 書物としての大聖堂、大聖堂としての書物というテーマ系はまた、ユイスマンスにおいても承継されている。
◇引用開始
しかし、と突然デュルタルはひとりごちた、もし私の説が正しいとすると、それだけでカトリシズムの全域を象徴できる建築、旧約と新約とを総合した「聖書」を代表する建築は、尖頭式ロマネスク、あるいは、なかばロマネスク様式、なかばゴシック様式の過渡的建築ということになろう。[…]「聖書」が全一冊にまとめられる必要もないのと同様に。このシャルトルの教会でも、たしかに書物は別々の二巻本になってはいるが、作品はみごとに総合されているではないか。なぜなら、ゴシック様式の伽藍を下から支えているのは、まさにロマネスク様式の地下祭室なのだから。(註75)
◇引用終わり
ユゴーがフロロの口を借りて説くのは、グーテンベルク革命以降の印刷術による書物と大聖堂とのアナロジーであった。対してユイスマンスにとっての大伽藍は、重ね書きの羊皮紙[ルビ:パランプセスト]である。
◇引用開始
結局は、とデュルタルはふたつの塔にはさまれた扉口、西正面の王の扉口の前に来た時呟いた、結局はこの壮大な、総計七百十九箇の彫像を持つ羊皮紙、文字の下に実は更に消されてしまった古い文字の眠っているこの伽藍の羊皮紙も、ビュルトオ神父が伽藍研究に当って用いた鍵を使えば、たやすく解読することができるはずだ。(註16)
◇引用終わり
印刷という複製技術によって制作され流通する書物と、過去の痕跡を留めた固有の物質である羊皮紙、という相違はあるにせよ、ここでは共に大聖堂が「読み解くべき」テクストと化している。もちろん、「文盲の聖書としての教会空間」という伝統的な発想の体現を見てとることも可能であるし、一八世紀的な「建築の観相学」への参照も、ことにユゴーは意識していたかもしれない。しかしユゴーユイスマンスにおいて先鋭化するのは、テクストと建築空間との相互浸透、いわば「モニュメントとしての書物/書物としてのモニュメント」と言うべき関係なのだ。それは、ポール・ヴァレリーやステファン・マラルメ、あるいはミシェル・ビュトールらによる「見られた書物(livre vu)」、「オブジェとしての書物」との系譜と、隣接しつつも若干異なった次元にある。
 建築物の表面に浮かび上がるのは、また時間の痕跡でもある。マルセル・プルーストは、追憶の中のコンブレーの教会を次のように描写している。教会のファサードは、時間の痕跡が刻印される表層として立ち現れる。
◇引用開始
私たちが入っていく古い正面入口は、黒ずんで至るところに穴があき、歪み、角という角は深くえぐられ[…]さながら教会にやってくる農婦たちのマントや、聖水に浸すそのおずおずとした指先が、幾世紀も繰り返して軽くふれてゆくうちに、いつかこの接触が破壊的な力を獲得し、石をたわめてこれに溝をつけたかのようだった――ちょうど荷馬車の車輪が毎日ぶつかる車止めの石に、いつか車輪の跡がついていくように。(註77)
◇引用終わり
教会の内部空間もまた、プルーストにとっては時間の体現物である。建築物の上を流れた時間の集積は、外壁の重層的な構造――その層を垣間見させる切れ込み――から看取される。
◇引用開始
言ってみればそれは四次元の空間を占める建物で――第四の次元は〈時〉の次元だ――内部は数世紀にまたがって広がり、柱にはさまれた梁間から梁間へ、礼拝堂から礼拝堂へと、わずか数メートルの距離ではなくて、次々と継起する幾時代を征服し、乗り越え、そこからこの建物が勝ち誇って生まれたように見えた。またこれは荒々しく粗野な十一世紀を壁の厚みのなかにぬりこめ、その時代が壁からあらわれるのは、わずかに鐘塔の階段によって玄関脇にうがたれた深い切り込みを通してにすぎず[…](註78)
◇引用終わり
ここで想起されているのは、個人のものではなく、建築空間に固着した記憶である。空間の広がりを通して、過ぎ去った数百年の時間が観想される。
 消された文字をも痕跡として留める羊皮紙を、ボードレールは人間の記憶の機構に喩えた(註79)。そこでは一度忘却されたはずの記憶も、互いに重なり合いつつ痕跡として残存し続ける。記憶痕跡の書き付けられる場としての聖堂の表皮、そして羊皮紙は、既に第一章で触れたエッチングとも通ずる性質を持つであろう。ピラネージよりも一世紀後、ノートル=ダム・ド・パリをはじめとするパリの相貌を抑鬱的なトーンで刻んだ銅版画家に、シャルル・メリヨンがいた。(図21)彼の画業は、建築物の表皮に「時間」によって刻み込まれた擦過傷を、腐蝕銅版画の工程において反復しつつ、都市景観画として視覚的イメージの次元でも再現する営為であった。
 駒井哲郎によれば、メリヨンは銅版画制作に回帰した一八六一年以降、過去に刻版した「パリ風景」の銅版のほとんど全てに修正を施したという(註80)。一八六四年制作の《アンリ四世校》(図22)では、遠景に広がっていた余白部分(海景や山岳風景)が、加刻によって高密度の都市風景へと変貌を遂げている。駒井はメリヨンの修正が、他の銅版画家たちでは例を見ないほどに徹底していたことを指摘する。明示的な記憶――転写像として紙にうつる画像――のラディカルな改変を試みたメリヨンは、晩年に至り、銅版の彫りを全て消し去ったという。重層的な記憶痕跡は削り取られ、完全な忘却という白紙状態に置かれる。時間経過によって黒ずんだ聖堂の外壁を、一時期の修復理論が真っ白に洗うことを推奨したように、メリヨンは自らの記憶痕跡を抹消してしまう。ほぼ同時代を生きつつも、この癲狂の版画家と「大聖堂の文学者たち」とを分かつのは、記憶痕跡への意識であるだろう。
 装飾を「犯罪」として糾弾し、その除去(田中純の言葉を借りるならば「去勢」(註81))を建築の規範とするロースがその思想の体現である「ロース・ハウス」を設計するのは、一九一〇年のことである。一九世紀的な「皮膚」の感性学は、プレインな表層を志向するモダニズムの台頭によって決定的な変遷を迫られることになるであろう。


註71:ヴィクトル・ユゴーノートル=ダム・ド・パリ』辻昶・松下和則訳、新潮出版社、二〇〇〇年、九ページ。
註72:同上。
註73:同上、一七五ページ。
註74:同上。
註75:ユイスマンス『大伽藍』一〇九ページ。
註76:同上、一四二ページ。
註77:マルセル・プルースト失われた時を求めてⅠ(抄訳版)』鈴木道彦編訳、集英社文庫、二〇〇二年、八三ページ。
註78:同上、八七ページ。
註79:シャルル・ボードレール「人工の天国」安東次男訳『ボードレール全集』第二巻、福永武彦編、人文書院、1963年、187-188ページ。
註80:駒井哲郎『銅版画のマチエール』美術出版社、六三ページ。
註81:田中純「破壊の天使――アドルフ・ロースアレゴリー的論理学」『建築文化』第五七巻六五七号、彰国社、二〇〇二年、九八ページ。