田中純「建築と文字――アレゴリー的試論――」磯崎新岡崎乾二郎監修『漢字と建築』、INAX出版、2003年、200〜217頁.

文字こそは極めつけのアレゴリーにほかならない。なぜなら、イメージと言語的意味作用との間の深淵に沈潜するのがアレゴリー的記号の特徴であるとすれば、文字はまさしくそうした分裂においてこそ存在しているからだ。アレゴリー的形式の源泉には、ルネサンス人文主義者たちによる象形文字解読の試みがある。レオン・バッティスタ・アルベルティは率先して、象形文字を拡充した判じ絵で美術品を装飾した。

「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない」。それはアレゴリーが断片を積み上げて作り上げられる文字像であるからだ。エンブレムとはそのようにして築かれた廃墟建築である。そんな廃墟は謎めいている。そこには何かが隠されている。

ピラネージの目的は、「建築のエクリチュールの絶対的な恣意性、それがいかなる『自然』に起源をもつものでもないこと」を示すことにあった。[…]ギリシアエトルリア、エジプトの各様式を混在させた『暖炉その他の建築各部のさまざまな装飾法』(1769)では、言語の多元主義が無造作にカタログ化されている。装飾の諸要素は、ピラネージが古代建築の工作機械の部品を描くときと同様に、歴史的コンテクストを剥奪されたうえで巨大化されて、シュルレアリストの「見出されたオブジェ」のように謎めいたものとして蒐集される。[…]ピラネージの建築的エクリチュールは[…]記号の過剰な変形的増殖による意味内容の空洞化――「アレゴリー的なものの二律背反」は、とベンヤミンは言う、「すべての人物、すべての事物、すべての関係が、任意の別のものを意味しうる」ところにある――にこそ向かっていた。

寓意家ピラネージの発明術は銅版画における文字にも表れている。一見して明らかなように、その銅版画中の文字は多くの場合、図像の重要な要素になっている。ことに文字の書かれた紙が騙し絵のように描かれることが多い。[…]古代ローマを再現した地図そのものが、断片と化して発掘され、復元された遺物のように描かれているのである。古地図にしろ、こうした石板にしろ、それ自体が「見出されたオブジェ」なのだ。三次元的な描写の場合には、図像のタイトルや解説などが、画面内部の遺跡に彫り込まれた巨大な銘文のように描き出されている。古代建築について語るテクストが古代建築そのものに刻まれているかのように描かれる。メタ言語と言語とが、メビウスの帯めいた端のめくれた古地図のように、捻れて連結されてしまっているのである。

文字が建築物に化してしまう場合もある。[…]なるほどそれはいまだに文字Pである。だが、そのPは何も語らない。それはまったく沈黙している。われわれはいわばこの文字に生気を与えて、それを言語記号へと蘇生させることができないのだ。

[17世紀ヨーロッパで散見された]普遍言語構想の課題とは、カトリックの権威に代表される失われた「超越的な意味」の回復に他ならなかった。[…]18世紀前半にはすでに、建築においても「超越的な意味」、すなわち古典主義の「蝕」(タフーリ)は明らかなものとなっていた。[…][ヴィンケルマンやピラネージのように]古代的モデルの模倣による「超越的な意味」の回復を志向する動向も生じてくる。風景庭園やエルラッハの『構想』は、ヴァナキュラーな建築の多様性によって古典主義建築の言語を相対化してしまう。ピラネージによる実験の数々は、古代ローマに範をとった絶対的な超越性を建築に回復するどころか、建築から意味論的自律性を剥奪し、それをきわめて曖昧で両義的なオブジェに化してゆく。この過程は、古典主義からあれこれのヴァナキュラー建築、さまざまな古代建築の遺物にいたるまで、すべてを包括する「建築」という概念の成立を伴う。あれもこれも「建築」なのだ。しかし、このような「建築」観念の共有は、逆にあたかもあらゆる建築が「建築」観念のもとに作られてきたかのような錯覚を生む。起源をめぐる論争が起こるのは、このような錯覚のもとにおいてである。[…]メタ・レベルにあるはずの「建築」がやみくもに実体化されようとするために、それは過去の規範から外れ、機能も欠いた純然たる奇想に行き着いてしまうのだ。「イクノグラフィア」をはじめとする、合理的秩序を逸脱した、解体された建築形態の増殖するユートピアは、[…]読みえない文字としての建築の集積である。
→観念的な「アーキタイプ」を、具体的な建築の造形的・構成的要素ないしは属性に求めることから生じる矛盾

建築の起源ないし普遍的な原型を、自然主義的厳格主義のような方法で論理的に導き出すことはできない。純粋な要素への還元は完全には遂行されえない。建築という言語はそもそも恣意的な慣習的制度であって、自律した論理的な構造として取り出しうるものではない、という認識がそこ[ピラネージによる『建築に関する所感』の結論部分]にはある。


アドルフ・ロースの「シカゴ・トリビューン新聞社社屋案」においては]建築言語はそこでコンテクスト(ヨーロッパ古代)から完全に切断され、形態のみに還元されサイズを巨大化された挙げ句、時代錯誤的にまったく異なるコンテクスト(20世紀アメリカ)へと、強引に移し替えられているのである。
→c.f. 隈研吾によるM2ビルhttp://uratti.web.fc2.com/architecture/kuma/M2.htm