未来的ユートピアと理想的古代、幾何学的図形のシンボリズム

芸術(アルス)と生政治(ビオス)

芸術(アルス)と生政治(ビオス)

ピラネージや革命期のペーパーアーキテクト3名についても言及されている。

革命前夜、一七七〇年から一七九〇年にかけてのパリの芸術アカデミーは、理想的な「ムセウム」のためのコンペをくりかえし布告している。この「ムセウム」は、「文学、科学、技芸に捧げられた建物」、つまり学問と芸術の殿堂となるべきものである。[…]このときに提出された建築案で興味深いのは、その多くが集中式プランを採用しているという点である。[…]もっとも雄弁にこのようなプランを打ち出したのは、何といっても、エティエンヌ=ルイ・ブレーによるムセウム案であろう。目もくらむような円柱の遠近法的配列、四つの巨大な半円筒状の回転天井、中央の円形パヴィリオン、半円状に張り出した四つの回廊によって特徴づけられるこのプランは、その壮大さ、透明性、超越性、無限性において他の案を圧倒するもので、しばしば指摘されるように、エドマンド・バーグの崇高の美学とも踵を接するものである。
また、ロックとコンディヤックの感覚論哲学から影響を受けたブレーは、「カラクテール」の概念をその建築理念の柱に据えていたが、それによると、建築はその用途をはっきりと表現し、一目でその意味を明らかにするものでなくてはならない。ブレーにとって「ムセウム」は、筆禍李に満ちあふれる透明性、観衆の目をくらませるようなモニュメンタリティをその特徴とするものであり、それによって、彼のもうひとつの建築理念である啓蒙の使命、つまり社会的で道徳的で教育的な使命が果たされるのである。形態の抽象化と幾何学化の基礎にあるのは、古典的な建築言語である。円と正方形という単純明快な幾何学的形態によって構成されたその図面は、まさに、建てることよりも構想し描くことのほうに情熱を注いだブレー建築の性格をよく表してもいる。
(17−18ページ)

「ムセウム」のプランとして集中式や円形のものが大多数だった理由は、その語源的・図像的伝統にある。女神ムーサの神殿を意味する「ムセイオン」としては、古代アレキサンドリアのものが有名であった。「この失われた巨大建造物は、文化的で政治的な反映と権威を象徴する古代の遺産として、西洋の人々の想像力を刺激しつづけてきた(19ページ)」のである。フィラレーテ(イタリアの建築家、1400−69頃)は『建築論』の中で、円形プランの巨大建造物として「ムーサの神殿」を描いている。古代の賢人たちを描いたラファエッロの《アテネの学堂》も、巨大なドームをもつ集中式の建築として描かれている。このような「円や多角形」の建築を、岡田氏は「ユートピア的理念の形象でもある」としている(22ページ)。

円形プラン、あるいはもっと単刀直入には球体やドーム状の建造物が、実際に、革命をはさむフランスで大いに好まれたことは、すでに広く知られるところである。ブレーによる《ニュートンの記念碑》のための計画(1784年)、クロード・ニコラ・ルドゥーによるショー製塩所の墓地計画(1785年頃)やモーペルテュイの小作人監視の館の計画案、ジャン=ジャック・ルクーによる《平等の神殿》のための計画案などがそれである。これらのプランには、古代ドルイド教フリーメイソンなどの影響が指摘されているが、わたしたちが注目しておきたいのは、こうした球体がもつある種の逆説的な性格である。幾何学的にもっとも純粋で完璧な図形である円や球は、宇宙と調和、理性と平等の象徴とみなされる反面、全体性や超越性、支配や統一の象徴ともなりうる。それゆえ、ドームや球体は、民主主義的な理想を体現する一方で、全体主義的なメタファーとしても機能するのである。そのことは、同じ球体が、ルクーでは《平等の神殿》として、ルドゥーでは小作監視人の館として利用されていることからも、想像されるとおりである。瞳のなかにブザンゾンの劇場――それ自体が円形プランをもつ――が反射する様子を描いたルドゥーの有名な版画も、この二面性において理解できるだろう。万人を受け入れることのできる劇場空間は、すべてを見渡すことのできるまなざしの支配下にあるのだ。(23ページ)