同一性と多層性

ある漫画家の方のブログに、ちょっと面白い部分を見つけたので抜粋。

「闘技場〜アリーナ」の前半部分を除いては、手書きの擬音も全て画像から除去して、フランス語に差し替えた完全版。(何で「闘技場〜アリーナ」の前半だけ、日本語の書き文字が残っているかというと、マンガの仕上げをデジタル化したての頃は、擬音を別レイヤーにしていなかったので、それを外すと絵まで白く抜けちゃうからなんです)
http://tagame.blogzine.jp/tagameblog/2008/02/gunjiarena_b950.html

フランス人向け日本語教室の主催者に伺った話だが、イマドキの中高生は仏訳版和製マンガの手書き部分を読むことで、平仮名・カタカナやちょっとしたオノマトペを覚えてくるのだそうだ。そういえば現地ロータリークラブ会員(奨学金関係でお世話になっている)のお宅を訪れたときも、高校生の次男坊がマンガで学習したという日本語、「ズドドドドド!」と「バカッ!」を披露してくれた。マンガで手描きされている日本語部分は、フランスの若年層にとっては、身近な生活の範囲内での初めての外国語(=日本語)体験として機能してきたようである。マンガ原稿のデジタル化とその処理の高度化という、ごくごく物理的・技術的要因によって、「異文化との出会い」の局面すらも、今後はまた違ったものになっていくのかもしれない。
もう一つ面白いと思ったのは、完成したものを見てしまえば「一枚の平面」としてしか認知されない作品が、実は複数の「レイヤー」を重ねるというプロセスを経て構成されているということ。このデジタル技法だと、レイヤーの一部(例えばセリフや背景の擬音語部分)を「差し替える」ことで、幾通りものversionを編み出すことができるはずだ。旧来的な銅版画(エングレーヴィング)やエッチングの場合、ヴァージョンを変えるには加刻する必要があり、それは原版に一種の物理的痕跡として残ってしまう。さらには、これはあくまでも不可逆的な作業としての「加刻」であって、イメージの「層」には交換可能性が無い。こう書いてしまうと、旧来的な「物質」としてのメディアと、デジタル・メディアとの間の質的差異、みたいな、おそらく今まで散々論じられてきたであろうテーマに帰着してしまいそうだけれど。むしろ多色刷り版画のプロセスの方が、「レイヤー」という感覚に近いかもしれない。