西洋との対話:矢代幸雄とヴェルフリン

矢代はそのボッティチェリ論(英文初版1925年、邦訳版:吉川逸治・摩寿意善郎監修、高階秀爾他訳、岩波書店、1977年)で、自然模倣の態度を「線的」なものと「色調的」なものとの二項で整理している。(ボッティチェリの絵画は、「線的」模倣に分類されている。とりわけ絵画の本質的要素を「線(ディゼーニョ)」と「彩色(コロリート)」の二項対立によって捉える発想自体は、西洋の絵画論では伝統的なものであるが*1、矢代の場合はさらにそこに「余計なもの」や「ズレ」が付け加わっているようだ。

線的な絵画は古くさくて真のリアリズムはマザッチオの〈浮彫〉の手法からのみ到来するという、かくも大雑把な一般化をするのはヨーロッパ美術のことしか知らない学者のみであろう。〈線的〉リアリズムの諸作例に慣れている東洋的精神の持主にとっては、この区別は絵画の発展を説明すべく少しも充分ではない。むしろ自然に対する二種類の芸術的態度、すなわち線的なものと色調的なものとがあると考える方がよい。これらは芸術家の資質に由来する別様の態度であり、別様ではあっても必ずしも技法の上で一方が発達しており他方が劣るというものではない。両者ともに自然の本質的な様相に接近する手段でありうるのである。
(邦訳版:22ページ)

客観的には存在しないのだから線とリズムとは立体的な自然を色調の価値として描くのにさほど効果的でないことはたしかであり、しかしそれらは別の力強い機能、装飾的で象徴的な機能を有する。ゆえに、線の感受性に大いに恵まれた芸術家は一般的に言ってただ単に〈再現〉するだけの芸術を行わない。彼は別様の、リアリズムの到達できない霊妙(ルビ:エーテル)な領分へと入り込む。
(23ページ)

「リアリズムの到達できないエーテルな領分」という言い回しに微弱な電波を感じるけれど、それはともかく、矢代が「線的な自然観」に立つ巨匠の例として挙げるのがデューラー、対する色調の例とするのがティツィアーノである。さらには、線的なものを「ゴシック」、色調的なものを「クラシック」と呼び変えている。

この二分法は、ハインリッヒ・ヴェルフリンによる『美術史の基礎概念』(ミュンヘン:1915)での有名な二項対立を連想させる。すなわち、「線的/絵画的」の対立であり、これは「デューラーレンブラント」、「クラシック(ルネサンス)/バロック」、「触覚図(彫塑的)/視覚図」、「存在(Sein)的/仮象(Schein)的」の二項対立と等価なものとして置かれる。ヴェルフリンの言う「線的/絵画的」は、矢代の「線的/色調的」と重なる部分も多いが(10年後に論文を書いた矢代の方が、ヴェルフリンの説を踏まえていたことは十分に考えられる)、時代・様式との対応関係がまったく異なっているところが面白い。ヴェルフリンによればルネサンスが「線的」であり、一方で矢代によればそれは「色調的」な時代となる。

言葉の選択が異なる理由は単純だ。矢代は北方ルネサンスに見られる性質を「ゴシック」と名づけ、対してヴェネツィア派のような絵画を「クラシック(ルネサンス)」として想定している。言い換えれば、ゴシックとは「北方的性質」であり、「クラシック」とは「南方的性質」である。

ゴシック的な資格は厳しくて暗い北方の気候によってある程度説明可能であり、クラシックな気質は南方の恵み多くてしのぎやすい気候によって説明される。そして両者がヨーロッパ文明を二分しているのである。
(24ページ)

ヴェルフリンにとって「クラシック(ルネサンス)」と「バロック」とは、時代様式に関する視覚的なレベルでの対立であったが、矢代にとっての「ゴシック」と「クラシック(ルネサンス)」は、地域や風土、精神性の対比関係も含むのである。もちろん、ヴェルフリンも様式を「その時代に特有の視覚形式」や「時代精神」の表出として捉えてはいるが、矢代のような(単純で素朴な)還元主義は採っていない。
気候や風土と文明・文化の特質とを結びつける論調は、例えば18世紀のヴィンケルマンも採っているし、明治期に刊行され一大ベストセラーとなったという志賀重昂の『日本風景論』(1894)にも顕著に見られる。また矢代と1歳違いの和辻哲郎は、1931年に『風土論』を上梓している。矢代に見られる「風土決定論」が、特定の書物や人物からの影響なのか、それとも時代の空気だったのかは現時点では分からないけれど、ヴェルフリン的二項対立関係にさらに別の観点を導入した結果が、このようなズレだったのだと思う。

*1:このような発想の源泉がどこにあるのかは、まだ調べがついていない。少なくとも17世紀には、シャルル・ル・ブランとロジェ・ド・ピールとの間で、明確に理論化された形で「線描・色彩論争」が起きている。一般的にも「ディゼーニョのフィレンツェ絵画、コロリートのヴェネツィア絵画」などと言うが、ルネサンス当時からこのような対立が意識されていたかどうかは不勉強にして知らない。