横浜美術館で開催中(12月31日まで)のドガ展のレビューを、artscapeの「フォーカス」欄に寄稿いたしました。
http://artscape.jp/focus/1224725_1635.html

このレビュー執筆のために読んだポール・ヴァレリーの『ドガ ダンス デッサン』が素晴らしい面白さで、何度か読み返してしまう。訳者の清水徹氏は、訳語を選び取る感覚が卓越しているというか、少なくとも私の「肌に合う」文章を書く人である。

ドガ ダンス デッサン

ドガ ダンス デッサン


※最近出掛けた展覧会

  • 「二十世紀肖像」展+「ラヴズ・ボディ――生と性を巡る表現」展(東京都写真美術館

館内併設のカフェで打合せをした後、締切を徒過したレビューを推敲していたら、閉館間際になってしまったので、駆け足で二つの展覧会を巡る。急いで全部の出展品に目を通そうとしても、どうしても「目が止まってしまう」作品というのはあって、今回は例えばセバスチャン・サルガドの写真。あざとい作為の感じられない報道写真なのに、構図も白黒のコントラストもピントの深度も、これ以上の均衡はないだろうという緊迫した一点で決まっていて、凄みがあった。「ラヴズ・ボディ」展は、テーマとなっている生も性も、誰にとっても必須かつ所与のものであるにも関わらず、間近に迫った死の緊迫感や、特異な形態の性愛(同性愛など)を示唆した、特殊な作品が多かった。あえて表現するに値する「日常」となると、それは感覚に突き刺さってくるような特異な瞬間であったり、あるいは「表現者としてのレゾン・デートル」を獲得しやすい同性愛者(ないしフェミニスト)のものであったりする必要があるのかもしれない。

《海》などのシュルレアリスム作品が有名な古賀だが、その画風は時代によって変化の振り幅が相当大きかったことがよく分かる展覧会だった。外部(主に西洋の動向)の影響を受けて、スタイルは頻繁に変化するにも関わらず、どこかに「古賀特有のポエジー」のようなものが伏流していて、その正体は何なのだろう、と思う。様々な既成のイメージ(雑誌掲載の写真、絵葉書、精神病患者の描く絵画についての学術誌の挿図など)から、コラージュ的に一つの空間を構成していったというのも面白い。当時(日本近代)の都市イメージの「何か」が反映されているように思う。例えば(古賀よりは古い世代だが)萩原朔太郎の詩や、ほぼ同時代(1920年代)の稲垣足穂の短篇などには、どこか西洋の都市情景を思わせる、しかし現実の参照項をもたない空間描写が登場するけれど、それらとも相通ずるものを感じる。展覧会を見終わって外に出ると、葉山の海にちょうど太陽が滑り落ちていくところだった。空と海が刻々と様々な花の色に移り変わり、燃える薔薇色の後に銀灰色の大理石模様が現れるまでを、貝殻や波に洗われたガラス編、孔の空いた石などを拾いながら眺めた。