西洋との対話

4月28日のエントリーでも触れた矢代幸雄西洋美術史講話』(1921)では、1925年刊行のSandro Botticelliで用いられることとなる基礎的分析概念が、既に体系的に提示されている。「古典的=南欧ギリシア思想=自然への志向」と「ゴシック=北方=キリスト教霊性への志向」という二項対立である。また、矢代は当時流行していた様式(芸術作品の外観上の徴表、という意味での)分析を二次的なものと見做し、芸術作品の源となるような「精神」、ないし「芸術心理」への接近を芸術学の本質としている。さらには、風土が民族性や文化を形成し、それが芸術作品の差となって現れ出るという発想も、既にこの著で明示されている。これは「美術史の始祖」と言われるヴィンケルマンとも明治期の志賀重昂とも、あるいは後に『風土』(1935)を表す同世代の和辻哲郎とも共通する思考形態だ。
冒頭で矢代は「予は歴史家ではない。単に芸術を愛する者である。」と宣言しているが、この自己規定はその生涯を貫いて変わることがなかった。自らも書籍タイトルとして「美術史」の語を用い、また一般には「美術史学者」として認識されているにも関わらず、矢代の美術史記述(というか、作品分析や芸術家・パトロン列伝)には、確かにある種の歴史意識(「過去」や「時系列の整理」という概念)が欠けているのではないか。『サンドロ・ボッティチェリ』でも、もちろん影響関係史にも申し訳程度には触れており、作品の帰属確定作業もこなしているし、記述の順序は画家の個人様式の時系列に従った分類に拠っているのだが、論述の基本姿勢は「作品と私」であるように思われる。
この著の本筋とは無関係なのだが、ぎょっとした一節がある。「文芸復興[ルネサンス]は謂はば第三帝国である」という表現がそれで、古典古代を第一帝国、中世のキリスト教専制」時代を第二帝国に見立てた比喩である。ちなみに、ナチス・ドイツによる呼称「Dritte Reich」の元となった書籍Das Dritte Reichの刊行が1923年、日本で「第三帝国」の訳語が定着したのは戦後になってからだと言う。矢代のこの著作が刊行されたのは1921年だから、ナチスとはまったく無関係に、「第三帝国」という呼称が既に定型表現として用いられていたのか、それとも矢代独自の比喩表現に、事後的に時代が(全く別の文脈で)追い着いてしまったのか。
第三帝国http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD
Third Reich:http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Reich#Names