ヴィンケルマンが「端緒」とされるギリシア熱の背景について。

ヴィンケルマンが「ギリシア人の精神」を推奨したことは、その当時としては珍しいことだった。最後に彼が住んだローマは、ローマ・カトリックの中世とルネサンスを通じてヨーロッパ文明の起源であると見なされてきた。この地には、訪れる者に古代の栄光を思い起こさせる過去が生き長らえていた。一八世紀には、ヨーロッパ中から芸術家が絶え間なく大挙してローマにやってきたが、それは最新の様式を学ぶというよりは、もっぱら古代遺物に結びつく香ぐわしく静かな水を飲むためであった。ローマ美術は派生的で、ギリシア美術こそが起源(オリジナル)だと主張するとは、ヴィンケルマンは、勇気があり大胆不敵だったと言える。しかしそのとき以来、彼の下した評価は美術史家と古典学者にあまねく受け容れられることになった。彼が、ギリシアアテネも訪れることなくこの判断を下すことができたのは驚くべきことだ。一八世紀には、ギリシア旅行は、非常に困難で危険であったことを思い起こさねばならない。ヨーロッパの他の地域では、とくに一七六〇年代に始まるジェームズ・スチュワートとニコラス・レヴェットによる『アテネの古代遺跡(Antiquities of Athens)』の銅版画の出版によって、その地に何があるかということがようやく知られ始めたばかりであった。
ヴィンケルマンは、ルネサンスつまり再生という概念を変更しようとしていた。いまや「誕生」はローマではなく、ギリシアで起こったことが確信された。一八世紀の初めには、ラテン語とローマ人の過去を重視することに反発する動きが高まっていたようだ。イタリア語特有の言い回しや、イタリアの詩人、とくにアカデミー、アルカディアに結びつく詩人を見つけ出そうとする強い願望には、とりわけラテン文学への敵意があった。
(V.H.マイナー『美術史の歴史』北原恵他訳、ブリュッケ、2003年、152-153頁。)

ルネサンス以来の伝統をもつと言われる「古遺物研究(antiquary)」においては、「古代」として措定されているのはローマだった。それを踏まえると、18世紀後半の「新古典主義」の時代になって突然、「古典古代としてのギリシア」が称揚され始めるのは奇妙である。この時代の古代熱の発端はヘラクラネウムとポンペイの本格的調査の開始にある、というのが教科書的な通説だが、この二遺跡はそもそも古代ローマに属している。
その辺りがずっと疑問だったのだが、ドイツ文化圏でのギリシア熱の根幹にラテン文化圏への反感があったというのは、言われてみれば当然のことのようにも思える。
ただ、フランスでの事情はより複雑なのではないだろうか。新古典主義啓蒙思想においては「ギリシア的なもの」が優位を占めるが、一方でローマのアカデミー・フランセーズでは古代ローマ美術の研究が継続されていた。絵画の領域では、ユベール・ロベールのようなピラネージのフォロワーが人気を博す(=廃墟画流行、ディドロに代表される時間意識?)一方で、建築思想の領域ではギリシアが純粋な起源として規範化される(完成形としてのギリシアと凋落としてのローマ)。「高貴な単純と静謐な威厳(eine edle Einfalt und stille Groesse)」はヴィンケルマンによるテーゼとして人口に膾炙しているが、その実「(ギリシア美術における)高貴な単純(noble simplisité, belle simplisité)」というフレーズを(文献で確認できる限りで)最初に使ったのは、フランス人美術批評家ピエール=ジャン・マリエットであった(マリエットに基づくヴィンケルマンの草稿発見:André Tibal, Inventaire des manuscrits de Winckelmann déposés à la bibliothèque nationale, Paris:Hachette, 1911.左記の事実に基づく研究:Pomian, Mariette et Winckelmann, "Révue Germanique Internationale", 13, pp.11-38, Paris: Presses Universitaire de France.)。つまりフランスでは、ローマ熱が継続する一方で、ヴィンケルマンが火付け役となるギリシア復古の機運も、すでに準備されていたことになる。
この辺の問題についての、専門的かつ精緻な研究はすでに出ているであろうから、地道に文献を当たるつもり。
余談だけれど、「edle Einfalt」をなぜか「edle Einhalt」と間違えて覚えていた。これだと「高貴な制止」になってしまう。非ドイツ語使用者にはありがちな間違いだろうけど、よく似た単語なのに全く別の意味を発生させているのがなんだか可笑しい。