読了本

俗に「昭和エログロナンセンス」と呼ばれる時代の怪奇的探偵小説。トリックやモチーフは現代から見ると江戸川乱歩エピゴーネンという雰囲気、大団円のご都合主義は乱歩よりも酷いが、フェティッシュなまでの疑似科学趣味(海野は早大理工学科卒、逓信省でエンジニヤを務めた経歴の持ち主である)や、本能的恐怖感を惹起するグロテスクな小道具の選び方は、群を抜いている。

所謂「マッド・サイエンティスト」が主人公の物語が圧倒的に多いのだが、ウワバミの消化管を模した人工装置の中で人間の死体を霧消させる「爬虫館事件」、屍体から取り出した腸をペットのように馴致させる「生きた腸」、最小限の生命活動を維持できるレベルにまで自らの身体を切り詰め、壊れた人形のような姿で発見される老博士と、彼によって四肢を切断され従順な奴隷としての生活を余儀なくされる妻を描いた「俘囚」、そしてシャム双生児と父親の異なる二卵性双生児という、異様な鏡面対象を組み合わせた「三人の双生児」など、無気味ながら蠱惑的なモチーフが、いたるところに鏤められている。堕胎手術(この時代においては、陰惨かつ淫靡なイメージが付されていたのだろう)の後に現われる胎児の、ぬらぬらと不定形な身体の描写(恐ろしき通夜」「振動魔」)には、根源的な恐怖を感じさせられた。

江戸川乱歩の作品にも、天才ピアニストの切断された手が、ホルマリン漬けの標本壜の中で動き出すという趣向のものがあるが、海野の「生きた腸」もまた、切断された身体の一断片が、あたかもそれ自体で一個の人間身体のような自律性を得る話である。また妻が四肢を切断され、サディストの意のままのトルソとなる「俘囚」は、乱歩の「芋虫」とよく似ている。昭和初期には、いわゆる「バラバラ殺人」の事件が巷間を騒がせたらしいが、身体断片が全体性を獲得する、あるいは逆に一人の人間が身体の完全性を剥奪されてオブジェと化すという筋書きは、この辺りに着想を得たものだろうか。

「胎児よ胎児よなぜ踊る」は、夢野久作ドグラ・マグラ』のよく知られたエピグラフだが、胎児という言葉にどこか無気味な響きがあるのはなぜだろう。本来ならば母体の内側で、その内臓と一体化しているべきアモルフな身体、人間の原初の姿であるところの畸形児のような形姿が、突如として外界に現われ出ることによるものだろうか。