人体廃墟

クラッシュ 《ヘア解禁ニューマスター版》 [DVD]

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「人体廃墟」について考えながらクローネンバーグの『クラッシュ』を観た。96年作にしては、テクノロジーに対する態度が随分と昔っぽいと感じたが、原作はバラードの73年の小説と知って納得する。女性の太腿の深い亀裂となった傷痕に舌を這わせる場面は、隠喩(傷口=女性器)としては安直な気もするが、なんともエロティックである。
自動車というテクノロジーと人体の融合、というテーマで言えば、例えばフセイン・チャラヤンの作品(乗用車のシートや小型の飛行船が衣服を兼ねている)は、モデルの無傷で完璧な身体と機械とが、物理的に密着している。(もっともチャラヤンには、交通事故で窓ガラスの大破した自動車を思わせる女性服デザインもある。彼のことだから、ヴィリリオ辺りか、ひょっとするとバラードそのものを参照したのかもしれない。)他方で『クラッシュ』の場合は、脆く傷だらけで、常に崩壊へと向かいつつある身体と機械が、メタファーとメトニミーの二つの関係で捉えられている。
クローネンバーグの『クラッシュ』では、事故現場の写真撮影も重要なモティーフとなっている。事故現場の写真というと、アンディ・ウォーホルの連作が想起される。この辺りは探せば既に相当数の批評や研究が出ていそうだ。ソンタグはカメラと銃の、ダニエル・アラスはギロチンとの通底性を論じているが、カメラこそまさしく、圧倒的な力による瞬間的カタストロフを切り取る機械なのかもしれない。
同じ「分断された身体」でも、ヴィンケルマンのトルソ、サドにとっての部分対象(ラカンはここからcorps morceleという概念を引き出す)、ギロチンで切断された首、ジェリコーが描く切断された遺体のアッサンブラージュ鉄道事故がもたらすバラバラ死体、銃や爆弾の改良の結果としての顔面を粉砕された傷痍軍人では、それぞれ位相が違うのではないか、ということをふと考えた。

クラッシュ (創元SF文庫)

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