ここ暫くは、明晰な論理と実証が要求される世界の外側で、指先を通して微かに肌理の凹凸が伝わる皮膚の手触り、口を開けた傷の切断面、そこからどろりと流れ出す赤黒い形の無いもの、そういった何かを掬い上げる文章を書いている。三島が自決したときに、散らばった内臓を掻き集めて喰らおうとした、熱烈な崇拝者の少年がいたらしい。キリスト教美術には、その肉を食むリアルさや物質性の故に惹かれる。

ユイスマンスの『大伽藍』では、大聖堂が「聖なる魂の容器としての身体」に準えられるが、『腐爛の華』ではその身体がもう一度、『さかしま』に登場する「表層」(梅毒によって冒された皮膚のヴィジョン、不気味な斑点を持つ蘭の花…)を思わせるような、腐れ爛れた病んだ皮膚へと送り返されている。田辺貞之助氏はユイスマンスを、「近視眼的な眼」と称している(『腐爛の華』訳者あとがき)。それは近接的であるが故に、形象の輪郭線を認識できなくなり、ただ色彩の物質性や表層の質感を偏執的に捉えようとした眼であろう。

一昨日急に暖かくなったせいか、身体が周囲の世界についていかない。こういう時は、ラジオもCDも聴く気になれない。この手の器械を聴くときにはいつも、音の壁が立ち上がるという感触があるのだが、その壁が身体のすぐそばまで膨張し、やがて全身を圧迫してくるような錯覚に囚われる。