残存するイメージ―アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間

残存するイメージ―アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間

一般的には「イコノロジー」の始祖として知られるアビ・ヴァールブルクの思考を辿る、浩瀚な書。ニーチェフロイト、ブルクハルト、ビンズヴァンガーと言ったほぼ同時代のドイツ文化圏の思想家たちの思考との近接性を説き、一方でヴァールブルクによる方法論を「悪魔祓い」してしまったパノフスキーゴンブリッチら「イコノロジスト」たちとの差異を強調する中で、ヴァールブルクによる思考が炙り出されてくる。
ヴァールブルクが古代からの図像の伝承の中に読み取るのは、「残存」あるいは亡霊の回帰であり、それはイメージの類似性の中に事後的に見出されるものである。
アナクロニスム」や「両極性」という鍵概念をやや無批判に頻用することは、ともすれば思考停止やヴァールブルクの神格化に繋がる危うさも秘めている。しかし、あまりにも平明かつ単純な体系に収斂してしまったイコノロジー研究や、未だに学界では支配的な素朴な歴史実証主義に揺さぶりをかけるという点で、非常に刺激的な書であると思う。
以下は自分の興味を引いた部分の抜書き。

クアトロチェントの形態の残存のなかに再来するマイナデスは、ギリシアの人物そのものではなく、この人物の変身した幽霊――古典期の、ついでヘレニズム期の、ついでローマ時代の、ついでキリスト教的文脈のなかでふたたび形象化された幽霊――の痕跡を残すイメージである。つまり、過ぎ去り回帰するのは、類似なのである。それゆえ反復は、自身の中で造作なく差異をはたらかせることができるのだ。ヴァールブルクはこのことを完全に理解していたであろう。
(上掲書、181ページ。)

ヴァールブルクの問題提起の最初の対象であった「起源の異質性(heterogene Herkunft)」…
(198ページ。)

物質的かつ幽霊的。この二つの判断基準を、模範的な仕方で同時に扱う学問分野がひとつある。考古学である。ギルランダイオの現存するフレスコを、破壊された対象物――フィレンツェの奉納肖像――から出発して分析し、<古文書館>に積みあげられた文書を極度の疲労もいとわず読解することでその様相と機能を再構成しようとするとき、ヴァールブルクは、美術史家と同時に考古学者としてふるまう。解釈というみずからの「作業」について、それを「つねにより深く浸透していく」プロセスとして語るとき――、フロイトもまた、記憶の考古学者としてふるまう。どちらの場合にしても、重要なのは、現前する事物(みずからの優美さを示すイメージ、みずからの不安を示す症状)を不在の事物の視点から見るということである。それは、不在であるにもかかわらず、まるで幽霊のように、現前する事物の系譜や現前の形式それ自体を決定している。ヴァールブルクにとっても、事物の系譜は、破壊残滓の物質的な空間性において把握されるのと同時に、回帰という出来事の幽霊的な時間性において把握される。
(342ページ。)

問題になっているあらゆる事柄について、[精神]分析家はそれを生きたわけでも抑圧したわけでもない。分析家の任務は、なにかを想起するといったことではないだろう。だとすれば、分析家の任務とはなにか。分析家は、忘却を逃れた徴候の数々を手掛かりに、忘却されたものを明らかにする、いや、より正確には構築するのでなければならない。[……]そうした構築の作業は、あるいは再構築の作業といってもいいのだが、考古学者の作業との深い類似を示す。考古学者もまた、破壊され埋没した住居や過去の建造物を発掘する。実は、分析家の作業は考古学の作業と同一のものである。
(343ページ、フロイト「ヒステリーの原因について」の引用)

過去の事物を発掘するということは、現在を、また過去それ自体をも修正するということである。心的現象[ルビ:プシュケ]の場合と同じように、文化においては完全な破壊も完全な復元もない。だからこそ歴史家は、症状や反復や残存に対して注意していなければならないのである。刻印が完全に消去されることは断じてない。しかし、刻印が同一なるものに身を捧げることもない。刻印というダーウィン的原則は、それがなければそもそも無意識的記憶などありえないだろうが、明らかに、持続性原則であるのと同じくらい不確実性原則でもある。
(344ページ)