森美術館の「杉本博司 時間の終り」展へ。

ホルバインによる肖像画を元にした蝋人形を、さらに写真に写した作品群が面白い。似姿の似姿の似姿は、作り物っぽさと迫真性の間を揺れ動いている。映画館のスクリーンを長時間露光で撮ったシリーズもあった。撮影のプロセスを考えれば、すべてのイメージの運動が一枚の写真のなかに捕捉されているはずなのに、中央のスクリーンは運動性も時間性も無化された、発光するタブラ・ラサと化している。

展覧会場は、東京大学所蔵の幾何学模型を写した作品群で始まる。黒い背景に、不可思議な形態がクローズアップで浮かび上がる様は、幾分シュルレアリスム期の写真作品とも似ている。明治期にドイツで作られたという石膏製の模型には、表面に無数の傷や筋があって、近接するカメラはそれらを克明に捉えている。杉本博司の作品の大部分はおそらく、マティエールを巡る探究でもあるだろう。それは例えば森山大道の「アレ・ブレ・ボケ」などとは異なり、被写体それ自身の表層に関係したものである。石膏模型のみならず、相似性と物質性の間を振幅する蝋人形の肌の質感も、海景シリーズにおけるほとんど運動の停止したような海面も(表面の微かな漣がなければ、上下のどちらが海なのか判別がつかないであろうし、ことによるとフォーマリズムかミニマリズムの絵画に見えることだろう)、そしてまた映画館の白く光るスクリーンの表面も、ことごとく表層のマティエールに関わっている。

杉本氏自身が手掛けたというこの展覧会の展示方法を巡っては、とあるSNSの美術館関係のコミュニティでも相当議論を喚起したようだ。会場自体をメタ作品とするというコンセプトは分かるけれども、演出過剰気味と言おうか、ややもするとあざといという印象は拭えない。氏がこのまま千住博と化さぬことを祈りたい。