啓蒙思想家たちと「散歩」

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机上にずっと置いたままの本を書架に片付けようとして、ふと開いたところに、今の自分にとってまさに天啓となるような一章ーーディドロのルソーの、メルシエのレティフの「散歩」ーーに眼が止まる。

ミシェル・ドゥロン『アンシャン・レジームの放蕩とメランコリー』鈴木球子訳、水声社、2020年の、「散歩」と題された章(254-261ページ)である。

 

ドゥロンはディドロ『ラモーの甥』の冒頭の一節「空が晴れていようろ、いやな天気だろうと、夕方の五時頃パレ=ロワイヤルに散歩に行くのが私の習慣だ」を挙げ、そこに「哲学的実践としての近代的な散歩の確立」(254ページ)を見てとる。ヴェールの中、暗い部屋に閉じこもることへの疑問や、ヴァンセンヌへの投獄の経験から、ディドロは空間と歩行を必要とするようになったというのである。「思考の自由は、彼にとって、歩くことの自由と同じものである」(同上)。

 

一七四六年から彼は、『懐疑主義者の散歩』に着手するが、そこでは思想の論争は場所や環境に適応している。散歩とは、ある教義にこだわることの拒否であり、異なる意見同士のやり取り、諸提案に対する受容性を意味するそれぞれの景色に、視点や考え方の型が対応している。「クマシデの丈の高い生垣を、よく伸びた密生した杉の木々で仕切ることで作られた」ラビリンスは、複雑さや形而上学的考察のメタファーになる。流れる水は感覚のはかなさ、心の移ろいやすさを表す。丘の頂上は、自由な仮説へと誘う。それは、ディドロが「地域哲学」と名付けたものであり、場所と結びつき、普遍性には根を張らないが、移動や彷徨には敏感な哲学である。『懐疑主義者の散歩』は代わる代わる三つの散歩道を引き合いに出すが、それらはテクストの再分割を形成する。茨の散歩道は禁欲主義とキリスト教を拒絶することを可能にし、花の散歩道がこの世の喜びを褒めたたえる一方で、マロニエの散歩道は、理神論やスピノザ主義、無神論唯物論のシステムを表す。それゆえ、討論は茂みの中で交わされる愛を許容する。(上掲書、254-255ページ。)

 

[『ラモーの甥』(1761-74年執筆、死後出版)冒頭の]パレ=ロワイヤルは、もはやこうしたアレゴリーの抽象作業を持つものではない。それはまさに現実の場所なのだが、思考はそこでは依然として、そぞろ歩きや右往左往、 パレの庭園のコンコースであり続ける。(255ページ。)

 このような自由な彷徨、規矩からの解放によって(『ラモーの甥』では、「散歩」と「娼婦を追いかけること」が二大メタファーになっている)、ディドロは「己の核心とも、多くの啓蒙思想についての信念ともほど遠いところに、彼はある種の経験や発明を再発見する」(256ページ)。

ドゥロンは、『1767年のサロン』の「ヴェルネ散歩」にもまた、よく似た自由な散歩への必要性が現れているという。

友人グリムによって急かされて、ディドロは一度ならず、『文学書簡』の予約購読者たちのために、ルーヴルの展覧会評に取り組んだ。次々と、彼は四角いサロン[引用者補記:サロン・カレのこと?]の壁にかけられたキャンバスを叙述し、そして突如疲れてしまう。新鮮な空気、自然、地平線への欲望に捉えられる。(256ページ。)

このような「自由な空間での散歩への欲望」が、よく知られた「ヴェルネ散歩」の冒頭――風光明媚な田園風景への旅と散策――を帰結するというのだ。確かに「ヴェルネ散歩」の語り手(ディドロ自身が仮託されている)は、城館の一室でのきりのない談義に飽いて、「散歩」へと出かけるのである。そこで得られるのは「夢想家の幸福」であるとドゥロンはいう。

散歩に頼ることは、批評家がヴェルネについてできるもっともよい称賛である。この偉大な画家は、不意にサロンの閉ざされた場を開き、想像力をゆさぶり、散歩と執筆を促す。(257ページ。)

Cf. ダニエル・アラスは「ヴェルネ散歩」のディドロによる記述が、「作品そのものを消去する」としている。(Daniel Arasse, « Les Salons de Diderot : le philosophe critique d’art », dans Œuvre complètes de Diderot, t. VII, le Club Français du Livre, xvi.)

懐疑主義者の散歩』、『ラモーの甥』、「ヴェルネ散歩」に続くディドロの「散歩」テマティスムは、『セネカ論(哲学者セネカの生涯と著作,およびクラウディウスとネロの治世論)』(初版1778年刊行)である。

この本は、一冊の本であるが、ところどころ私の散歩に似ている。私は素晴らしい眺めに出くわしたのだろうか? 私は立ち止まって、楽しむ。私は、景色の豊かさや貧しさに従って、歩みを早めたり、緩めたりする。常に自分の夢想に導かれ、私は疲労すること以外のいかなることにも注意を払わない。(上掲書257ページより再引用。)

この「散歩」の章でドゥロンが挙げる事例とその考察は、私自身の仮説――18世紀においては、既存の権力やヒエラルキー(絵画・彫刻アカデミーでの絵画主題に基づく序列など)を外れた場で、「歩行によるテクスト空間」が発生する――とも共振しているように思われる。

ディドロとルソーは、時代に知的自由、道徳的独立としての 散歩をもたらす。トロンシャン医師はすべての社交家たち、出不精で非活動的すぎる病人たちに、散歩を勧める。[…]都市の衛生学が空気の流通と、交易のよき経済制度を求めるのと同様に、個々人の健康は肉体の消耗を必要とする。ルイ・セバスチャン・メルシエとレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、それぞれのやり方で「都会の散歩者の夢想」を作り上げる。(259ページ。)

 

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

 

 この本を構成するメモが扱う街道は、もちろん地上の風景を横切り、つなぐ街道である。しかし、それはときには夢の街道であり、しばしば記憶の街道でもある。その記憶は私の記憶であるが、集合的な記憶、ときにはそのもっとも遠いもの、すなわち歴史でもある。

(上掲書、1ページ、著者による前書き)

 

これもふと思い浮かんだこと。川端康成の『片腕』に、テオフィル・ゴーティエの『ミイラの足』の影響はなかったのだろうか?(CiNiiやGoogle Scholarも含め、ざっとインターネット検索した限りでは情報が出てこない) ゴーティエの身体断片が(亡霊という形で)たやすく全体性を回復するのに対して、川端の「片腕」は断片のままであり続けるという決定的な違いはあるけれども。

断片となった身体(ミイラの足、『ポンペイ夜話』の溶岩に捺された女性の胸部)の持ち主が、美女の亡霊となって主人公の元を訪れるというのがゴーティエの「幻想」だから、それはネクロフィリアや人形愛、断片や痕跡へのフェティシズムではないだろう(ネクロフィリアや身体断片への愛好ならば、それが生きているかのような美女となる必要はなくて、むしろ屍体そのもの、断片そのものに留まらなくてはならないはずだ)。

ゴーティエと川端の違いという以上に、小ロマン派の時代と、新感覚派を生み出すような無機的で神経症じみた時代との間の、心性そのものの違いのようにも思われる。

Au château d’Argol

 

シルトの岸辺 (岩波文庫)

シルトの岸辺 (岩波文庫)

 
アルゴールの城にて (岩波文庫)

アルゴールの城にて (岩波文庫)

 

最近、ジュリアン・グラックによるテクストの「建築性」のようなものについて考えている。「建築(architecture)」のような、人為的で明確な構造をもつものというよりは、岩山のような砦(その中の海図室)、全体が崩落しつつある廃墟の街、ヴェッツァノの入江の真っ白な断崖、岩と岩の隙間に穿たれた、洞窟にも(しかし頭上は開いている)地下室(クリプト)にも喩えられる空間(『シルトの岸辺』)、あるいはゴシック・ロマンスめいた城と森(『アルゴールの城にて』)といったもの。人工物が圧倒的な自然と融合しているような、明瞭な構造がむしろテクストの語りのなかで失われていくような空間である。

『シルトの岸辺』に登場する架空都市オルセンナはヴェネツィアを連想させるけれども、例えばカルヴィーノ『見えない都市』で語られる想像上のヴェネツィアの、杭の上に建てられたモンタージュ都市といった浮遊的な軽やかさ(作中では、マルコ・ポーロが語るたびに、要素が入れ替わってゆく)と比べると、はるかにずっと重々しくて、砦や洞窟や入江といった他のモティーフ、大地に穿たれた地下墓室(クリプト)的な空間と連続しているように思われる。

場所とテクスト、空間とテクストといえばプルーストがまず思い浮かぶが、しかしプルーストの空間の移動とある種の時間性が結びついたような要素は、グラックにはほとんど無いような気がする。

 

『アルゴールの城』白水社版に付された安藤元雄の訳者あとがきによれば、グラックのテクストは以下のような性質をもつという。

 

[…]グラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。というよりも、この書法そのものが作品の真の主題を担っているのだから、もはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレヴェルで検討さるべきものとなっているのではあるまいか。[…]これらのおびただしい比喩が決して単なる作者の恣意でないことは、「遊歩道」の章の終わり近く、アルベールがエルミニアンの容態を気遣いながら見る夢の記述の部分をひもとけば明らかになる。ここでは誰しも、このような書法がまさに夢の記述にふさわしい、必然的な性格のものであることを悟るだろう。とすれば、この物語全体が、一連の悪夢のようなものとして読まれていいのであり、そう読まれたとき、この特異な城館を舞台にした陰惨な物語が、恣意による弛緩どころか、むしろ宿命の避けがたい必然のもたらす緊張に満ちた、異様に澄み切ったものであることが見えてくるはずである。

 その緊張は、もの言わぬ自然のたたずまいと人間の営みとの間を、まるで稲妻のように最短距離で往復する直喩によって示される。言ってみれば、宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそ、グラックがこの作品を書いたときの本当の狙いだったのではあるまいか。

(訳者・安藤元雄による「解説」、上掲『アルゴールの城にて』194-195ページ。)

 

 

 

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シャガールの描く浮遊的な情景に惹かれる。夜、あるいはいつともつかない不分明の時間、人間の眼をもつ動物、深閑とした色彩どうしの混じり合い、重力を免れて空に浮くこいびとたち。地面から、魯鈍な現実法則から解放されていることの、虚ろな自由。

論考掲載のお知らせ

拙論「架空都市の地図を描く――地図と(しての)テクスト」が、『ユリイカ20206月号(特集:地図の世界)に掲載されています。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3437

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モアの『ユートピア』やスウィフト『ガリヴァー旅行記』などの架空の紀行文と地図から始まって、ヴェルヌ『八十日間世界一周』にみる「地図から時刻表へ」、ビュトールの小説やピラネージの版画の「積層した時間の地図」、プルースト萩原朔太郎やロブ=グリエの文学作品における「地図の喪失」、ブルーノ・シュルツの小説で描かれる「世界創造としての地図」など、文学と図像を横断しながら、場所について語ることと地図を描くことの重なり合いを論じたものです。

 

拙論は乱筆乱文になってしまいましたが、他の寄稿者の論考が面白く興味深く、自分の研究という観点からも刺激を受けています。
私の論考とも重なるテーマのものが勉強になるのはもちろんですが、Googleマップという究極の「迷わないツール」の開発者たちと今度は「人をうろうろさせる」ゲームアプリを作った、という川島優志氏の「Not All Who Wander Are Lost」や、地図の暴力性を解剖図と重ね合わせる原木万紀子氏の「地図的パースペクティヴの暴力性」、「知覚の粉砕」をテーマにした木下知威氏の「知覚のクラッシュ:盲人と聾者における地図表象」が、発想として虚を突かれた感じで、面白く拝読しました。

散策(promenade)としてのディドロの絵画描写

 

『サロン評』でのディドロによる絵画の記述は、もちろんエクフラシスの伝統に則ったものである。と同時に、とりわけその対象が風景画である場合には、それは「テクストによる空想の散策」ともなる。例えばクロード=ジョセフ・ヴェルネの7枚の風景画について、ディドロは一人称の語り手が案内人の神父(ディドロはまた彼を mon cicerone とも呼んでいる)と対話しつつ、美しい風景の中を散策したときの報告という体裁で記述する。はじめに語り手は宣言する。

 

私の企図は、あなた方にその情景を描写してみせることだ。これらのタブロー には、それだけの価値があると思う。私の散策の同行者は、その土地の地形や、 それぞれの田園風景に適した時間帯[...]をよく知り抜いていた。まさしく、 その地方のチチェローネである。[...]さあ、私たちは出発した。私たちはお喋りをする。私たちは歩いて進む。 Mon projet est de vous les décrire, et j’espère que ces tableaux en vaudront bien d’autres. Mon compagnon de promenades connaissait supérieurement la topographie du pays, les heures favorables à chaque scène champêtre [...]. C’était le cicerone de la contrée. [...] Nous voilà partissic. Nous causons. Nous marchons.

(Diderot, Salons, vol. III, p. 99.)

 

「最初の場所」(=一枚目の絵)の描写は次のようなものだ。

 

https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k23398g/f103.item

(つづく)