これもふと思い浮かんだこと。川端康成の『片腕』に、テオフィル・ゴーティエの『ミイラの足』の影響はなかったのだろうか?(CiNiiやGoogle Scholarも含め、ざっとインターネット検索した限りでは情報が出てこない) ゴーティエの身体断片が(亡霊という形で)たやすく全体性を回復するのに対して、川端の「片腕」は断片のままであり続けるという決定的な違いはあるけれども。

断片となった身体(ミイラの足、『ポンペイ夜話』の溶岩に捺された女性の胸部)の持ち主が、美女の亡霊となって主人公の元を訪れるというのがゴーティエの「幻想」だから、それはネクロフィリアや人形愛、断片や痕跡へのフェティシズムではないだろう(ネクロフィリアや身体断片への愛好ならば、それが生きているかのような美女となる必要はなくて、むしろ屍体そのもの、断片そのものに留まらなくてはならないはずだ)。

ゴーティエと川端の違いという以上に、小ロマン派の時代と、新感覚派を生み出すような無機的で神経症じみた時代との間の、心性そのものの違いのようにも思われる。