テクストと映画の翻訳関係(翻案・アダプテーション

 

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

 

 

クロス・カッティングのほかにも、移動撮影、俯瞰撮影やクローズアップなど、サイレント映画の発明とされる技法のいちいちは、その対応例を過去の小説、とりわけ19世紀に確立されたいわゆるリアリズム小説のうちに見出すことができる。それは当然のことでもある。フランスに限っても、バルザックフローベールを経てゾラへと至る19世紀小説の大きな流れはひとえに、現実を目に見えるようにしたいという願いに導かれていたからだ。

( 上掲書、114ページ。)

 この後に著者は、バルザックが眼前の事物に時間経過や歴史展開も見てとろうとしたという例を挙げている。

 

近代小説における、視覚的要素に特権的な重要さを与えようとするこうした方向性は、19世紀半ばにフランスで写真術が発明されて以降、写真との競合というかたちでいよいよ顕在化していく。

(同上、115ページ。) 

 

安部公房と都市。1960年代から70年代にかけての、日本における「住宅」をめぐる言説との関係はどうなのだろうか? そういえば『燃えつきた地図』は、一種の「団地小説」でもある。

都市との距離という問題は、1960年代後半から70年代前半においては建築に限られた問題ではなかった。たとえば小説家の安部公房が1967年に発表した『燃え尽きた地図*1』は、作者自身の言葉を借りれば「都市からの解放」ではなくて「都市への解放」の方法を模索した作品として知られている。そして彼は1973年の『箱男』でその関心を更に推し進めた。主人公は箱を頭からかぶることで、外からの視線を防ぐと同時に、いかなる社会的な属性からも解き放たれて、都市の中でいわば視線だけの存在になれるポジションを得た(あるいはそのような幻想を得た)のであった。もし箱を「最小限住居」の比喩と見ることがもし可能ならば、箱男とは家と内面とを一体化させようとした結果のいびつな存在とみなすことができるだろう。

(保坂健二朗「日本の戦後の住宅の系譜学について」、『新建築住宅特集 2017年8月別冊 日本の家:1945年以降の建築と暮らし』2017年、238ページ。)

 

安部公房の文学作品と都市表象については、すでに以下の書籍もある。

安部公房の都市

安部公房の都市

 

 

*1:原文ママ、正しくは『燃えつきた地図』

日本における「建築書」の系譜(work in progress)

・平政隆『愚子見記』全9冊、1683(天和3)年(1669年以前から執筆開始)。
法隆寺の工匠(大工棟梁)による技術書。内裏や諸社寺の建物の形状や寸法、建築費の積算、工事仕様なども記す。宮大工の扱う建築類型の事例を記録。細部は口伝となっており、当時の日本の建築術が基本的には家伝・秘伝(対面によって口頭で伝えられる)であったことが分かる(Cf. 技術論としての西洋の建築書)。

レファレンス協同データベース「『愚子見記』について知りたい」:https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000136748

ここでは後に堂・祠・居と分類される正統としての宮大工が扱ってきたビルディング・タイプの事例が記録されている。(磯崎新磯崎新建築論集7 建築のキュレーション:網目状権力と決定』岩波書店、2013年、p. vii。)

 

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

 
廃棄の文化誌―ゴミと資源のあいだ

廃棄の文化誌―ゴミと資源のあいだ

 

遺棄された場所(abandoned places)について、ずっと考えている。廃墟や廃屋、その他管理者不明のままに半ば壊れつつ存続している人工的構築物のある場所を包括するための、仮の概念だ。Ruinが古代ギリシア・ローマの遺跡や中世ゴシック寺院の廃墟などの、固有名を持ち歴史化された(さらには後代から文化的な価値を付与された)建造物を、あるいは災厄や大規模破壊(カタストロフィ)、黙示録的終末(アポカリプス)の後に出来した残骸を指すことが多いのに対して、abandoned placeは、より広汎で緩慢な含意――いわば都市の中の空虚や意味の欠落、合法的な管理体制からの逸脱といったような――を持ちうるのではないか。そのように考えているところに、たまたま別件の原稿のために検索した情報から、ケヴィン・リンチの著作『廃棄の文化誌』(原著1990年)で、「廃棄された場所(wastelands, waste places)」なる概念が取り上げられていることを知った。

著者の遺稿を元に死後出版された本書は、様々な事柄が列挙されており、さらには結論部分を欠いていて、明晰な要約を取り出すことが難しいのだが、「廃棄された場所」概念は私自身の規定とかなり近いように思う。今後のための覚え書きとして、いくつか抜粋しておく。

 

 放棄された都市のイメージは、空想科学小説の中によく登場する。そして、その多くは、恐怖と退廃の場所である。しかし、これは、真実を完全に言い当てているわけではない。廃墟の中での生活にも、それなりの喜びはあるからである。壁、屋根、歩道、金属、鋼管、ガラス、機械。有用な素材は豊富にある。その風景は、自然な世界のどこよりも、はるかに茫漠として、自由と危険が混在した、誘惑的なものになりそうである。

(1994年版、48ページ)

 

都市は、廃棄された空間で溢れている。屋上、人のいない建物、放棄された土地、鉄道の待避線、あるいは高速道路の下、その周囲の空間。このような空間は、無用で使用されていないように見えるかもしれない。しかし、詳しく観察してみると、倉庫やゴミ置き場あるいはシェルターなどにふさわしい、周縁的な有用性を備えているのがつねである。

(同上、170ページ) 

 

Waste「廃棄されたもの」は「空虚なもの」「荒廃されたもの」という意味のラテン語vastusに由来するが、vastusは、また「内容のないもの」「無益なもの」という意味のラテン語vanusに近く、vanusは、サンスクリット語では「不足しているもの」「不充分なもの」の意味である。Wasteは、本来「巨大で、空虚で、荒れ果てた、使い途のない、人間に敵対するもの」という意味であった。

(同上、192ページ)

 

廃棄物は、人間にとっては価値がなく、使われないまま、外見上は有用な結果をもたらすこともなく、ものが減少することである。それは、損失、放棄、減退、離脱であり、また死である。それは、生産と消費の後に残る、使用済みの、価値のない物質であり、使われたすべてのもの、trash屑ゴミ、litter残り物、junkガラクタ、impurity不純、そしてdirt不浄をも意味することになる。身の周りを見渡してみると、廃棄されたモノ(廃棄物)、廃棄された土地(荒廃地)、廃棄された時間(無駄な時間)、そして廃棄された人生(浪費された人生)がある。

(同上、193ページ) 

 

廃棄物は、低所得者の居住地、荒れ果てた田園地帯、「開発途上」の国々、地階、屋根裏部屋、裏庭、道路の縁、使われていない敷地、湿地、そして都市の外周という社会の周縁へ移される。今日、巨大な都市は、都市を取り囲んでいたこれらの廃棄された領域と田舎の貧困層を吸収し、都市内の低開発地域と、都市の周縁階層にした。

反抗する者、社会の周縁にいる者、不法入国者にとって、廃棄された土地は避難の場所である。[…]廃棄された土地は、絶望の場所である。しかし、同時に、残存生物を保護し、新しいモノ、新しい宗教、新しい政治、生まれて間もなくか弱いものを保護する。廃棄された土地は、夢を実現する場所であり、 反社会的な行為の場所であり、探検と成長の場所でもある。

都市の内側でも、廃棄された場所は似たような役割を演じる。子供たちは、人のいない空き地で遊んで、しばし大人たちからの管理から解放される。裏通りは、サービスのアクセスや廃棄物を置くために設けられていたが、子供や浮浪者や犯罪者にも使われていた。

(同上、200-201ページ)

 

秋雨の降る中、上京していた母と共に国立西洋美術館松方コレクション展へ。松方幸次郎の経営していた川崎造船所の経営破綻に伴う作品の散逸や、ロンドンの保管倉庫の火災による焼失などで、コレクションの全容は不明とされてきたけれども、2016年にロンドンで1,000点近い作品リストが見つかったのをはじめ、今日ではだいぶその概要が分かってきたようである。展覧会は、松方コレクションの目玉となる「名品」(ゴッホの《アルルの寝室》など)のほか、松方の書簡やロンドンで発見されたコレクション・リストの一部、画商や所有者の経緯の辿れるカンヴァス裏面の貼り紙など、美術コレクションという制度そのものを見せようとするものだった。

松方幸次郎は、そのときどきの「目利き」的なアドヴァイザーの勧めによって作品購入していたとのことで、実際にこのコレクション展を見ても、松方自身が美術に対してどのような好みを持っていたのかがまったく伝わってこない。いくら「素人」でも、いやむしろ「素人」だからこそ、一定の趣味(例えばノスタルジックで情緒的な風景画が好きだとか、分かりやすくロマン主義的な傾向がある、といったような)が反映されそうに思うのだが。唯一「個人」が出ていたのは、自身の事業と重なる船の絵をいくつか集めていたということくらいか。コレクターの内面や主観を感じさせない、不思議なコレクションである。

むしろ、「松方が何を集めたか」よりも、「彼が集めなかったのはどのような傾向の作品なのか」を考える方が、松方コレクションの性質が浮き彫りになるのかもしれない。例えば、作品購入先がフランスとイギリスの画商に集中していたためか、イタリアやドイツなどの作品は、ルネサンス時代のオールドマスター品数点を除けば見当たらない。マティス、スーティン、藤田嗣治、その他イギリスのマイナー画家たちなど、1910-20年代の同時代美術もそれなりに購入していたようだが、キュビスム青騎士ダダイスムのようないわゆる「前衛」の作品は無い、など。(もちろん、今回は展示されていなかっただけかもしれないし、散逸したり焼失したりした収蔵品の中には、この種の作品が一定数含まれていたのかもしれない。近年全貌が明らかになりつつあるという松方コレクションの包括的なリストを見ないと、確実なことは言えないが。)

最後に飾られていた、倉庫での長年の保管によって、カンヴァスの半分が浸蝕されてしまっているモネの巨大な絵画が、何か物質的な迫力――時間が物質を蝕み、それが芸術という人間の営為を無意味なものにしてしまう、その証拠が目の前に物質として投げ出されている――があって凄まじかった。

断章的日記。

灰白色の懶惰を眠る。気に入りの、というよりも分離不安から手放せなくなってしまった獏のぬいぐるみを抱えて眠る。寝室には高い場所に小さな窓が一つあるだけで、昼間もいつも薄暗く、浅瀬のような眠りのなかに浮かぶには都合がよい。もちろんその合間には、PCの前で仕事をしたり、論文を提出したり、非常勤講義に赴いたり、職場の打合せに出たりもしているのだが、こうした覚醒している時間の方が、薄皮に包まれた幻影のような気がしてくる。他者との関係においてリフレクティヴに現れる、相対的で一時的でしかない自分から解放されて、自分自身でしかない自分に戻れたような気もするし、その一方で自分の顔が失くなってしまったという感じもある。

専任職に就職してから、あるいはそれなりにコンスタントに競争的研究資金が取れるようになってからかもしれないが、かつては自分にとって隠れ処であり救済であり、鎮痛剤であり同時に呪いでもあったはずの領野が、次第に義務感と使命感と規範意識だけで「ノルマをこなす」、「予め設定されている役割期待を読んで応える」ものになってしまい、もはやどこにも精神の安寧が見出せない状態だった。生のなかでの束の間の救いを、水中の魚を手で摑もうとするように、思考と言語によって捉えること、それ自体が自分自身にとっても、そしておそらくは他の同類の誰かにとっても救済であることに、かつての私は賭けていたはずだ。そのことさえ失念していた。とはいえ、自己完結した生温いディレッタンティズムがぐずぐずに腐敗してゆく事例も、少なからず傍観してきているから、20代の頃の青臭い理念をただそのままに取り戻そうなどとは思っていないけれども。

いくつかお誘いをいただきながら、未だ企画の詳細まで目処が立たないままだった次の単著のことを考えた。いろいろと考えを巡らせて、「性的建築」というテーマに辿り着く。言葉によって一つの建築物を築くような、そういう書物。大小さまざまな業務が次々に降ってくるなかで、締切の急迫性はないけれども本質的に大事なこの種の仕事を、着実に進めていかないと。

雨の降る夜に緑色の部屋で、今の自分の体温とあまり変わらない温度の書物なのではないかという予感があり、少し前に恵贈を受けた『戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全』を少し読む。「アンケート、自殺はひとつの解決か?」。終焉でも救済でもなく解決(solution)。定冠詞ではなく不定冠詞(=une ひとつの)。「《死》はひとつの解決か?」ではなくて、「自殺は……」である。自殺とは一般的には、自ら死を選び、なんらかの積極的行為を実行することを指すだろう。主体的な自己決定なるものに価値が与えられる(啓蒙主義以降の?)社会において、出生は根源的に自己選択できず、死の自己選択は多くの場合倫理上、社会秩序上の禁忌であるという矛盾。この辺りは、近年流行りの反出生主義や尊厳死をめぐる議論の論点でもあるのだろうが、しかし「私たちはまるで夢を見るかのように自殺するようである」と言うヴァシェによる、アンケート冒頭部に付された文章を見れば、彼はむしろ「意志」という概念を信頼していないのだ。その意味では、様々な回答のなかでも、ジョルジュ=ミシェルとポール・ブラッシュなる人物の、「自殺は不測の事態であり、事前の予知は不可能であろう」という趣旨の答えが目に留まる。人間の意志によるコントロールから外れて、向こうからやって来るhasard(思いがけない偶然/運命の巡り合わせ/危険)のようなもの。

戦時の手紙: ジャック・ヴァシェ大全

戦時の手紙: ジャック・ヴァシェ大全

 

 

国立新美術館の「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」展内覧会へ。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/gendai2019/

邦題にある「文学」より、英題「Image Narratives」の「ナラティヴ」、あるいは子供向けミニガイドにある「物語」という語の方が、展示内容からするとしっくりくる。
インスタレーションや映像と、音声による語りを組み合わせた田村友一郎、ミヤギフトシ。ウランとオリンピックと戦争と若い女性たちの物語を、写真、ドローイング、オブジェ、そしてテクストで展開する小林エリカ木版画や棚、グラフという約定をずらして提示する豊島康子。辺野古基地建設のための土砂採掘に揺れる沖縄の二つの家族を、短編映画にした山城知佳子。体制崩壊前のソ連と東欧、それから2010年以降の日本の、いわばテラン・ヴァーグ的(?)な場所の写真を並べた北島敬三。作品のメディウムも「語り」のあり方も様々だが、そこから立ち上がる「物語」を鑑賞者個々人が捉える、そういう愉しみ方のできる展示企画だった。