断章的日記。

灰白色の懶惰を眠る。気に入りの、というよりも分離不安から手放せなくなってしまった獏のぬいぐるみを抱えて眠る。寝室には高い場所に小さな窓が一つあるだけで、昼間もいつも薄暗く、浅瀬のような眠りのなかに浮かぶには都合がよい。もちろんその合間には、PCの前で仕事をしたり、論文を提出したり、非常勤講義に赴いたり、職場の打合せに出たりもしているのだが、こうした覚醒している時間の方が、薄皮に包まれた幻影のような気がしてくる。他者との関係においてリフレクティヴに現れる、相対的で一時的でしかない自分から解放されて、自分自身でしかない自分に戻れたような気もするし、その一方で自分の顔が失くなってしまったという感じもある。

専任職に就職してから、あるいはそれなりにコンスタントに競争的研究資金が取れるようになってからかもしれないが、かつては自分にとって隠れ処であり救済であり、鎮痛剤であり同時に呪いでもあったはずの領野が、次第に義務感と使命感と規範意識だけで「ノルマをこなす」、「予め設定されている役割期待を読んで応える」ものになってしまい、もはやどこにも精神の安寧が見出せない状態だった。生のなかでの束の間の救いを、水中の魚を手で摑もうとするように、思考と言語によって捉えること、それ自体が自分自身にとっても、そしておそらくは他の同類の誰かにとっても救済であることに、かつての私は賭けていたはずだ。そのことさえ失念していた。とはいえ、自己完結した生温いディレッタンティズムがぐずぐずに腐敗してゆく事例も、少なからず傍観してきているから、20代の頃の青臭い理念をただそのままに取り戻そうなどとは思っていないけれども。

いくつかお誘いをいただきながら、未だ企画の詳細まで目処が立たないままだった次の単著のことを考えた。いろいろと考えを巡らせて、「性的建築」というテーマに辿り着く。言葉によって一つの建築物を築くような、そういう書物。大小さまざまな業務が次々に降ってくるなかで、締切の急迫性はないけれども本質的に大事なこの種の仕事を、着実に進めていかないと。

雨の降る夜に緑色の部屋で、今の自分の体温とあまり変わらない温度の書物なのではないかという予感があり、少し前に恵贈を受けた『戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全』を少し読む。「アンケート、自殺はひとつの解決か?」。終焉でも救済でもなく解決(solution)。定冠詞ではなく不定冠詞(=une ひとつの)。「《死》はひとつの解決か?」ではなくて、「自殺は……」である。自殺とは一般的には、自ら死を選び、なんらかの積極的行為を実行することを指すだろう。主体的な自己決定なるものに価値が与えられる(啓蒙主義以降の?)社会において、出生は根源的に自己選択できず、死の自己選択は多くの場合倫理上、社会秩序上の禁忌であるという矛盾。この辺りは、近年流行りの反出生主義や尊厳死をめぐる議論の論点でもあるのだろうが、しかし「私たちはまるで夢を見るかのように自殺するようである」と言うヴァシェによる、アンケート冒頭部に付された文章を見れば、彼はむしろ「意志」という概念を信頼していないのだ。その意味では、様々な回答のなかでも、ジョルジュ=ミシェルとポール・ブラッシュなる人物の、「自殺は不測の事態であり、事前の予知は不可能であろう」という趣旨の答えが目に留まる。人間の意志によるコントロールから外れて、向こうからやって来るhasard(思いがけない偶然/運命の巡り合わせ/危険)のようなもの。

戦時の手紙: ジャック・ヴァシェ大全

戦時の手紙: ジャック・ヴァシェ大全