全く以て消化できているとは言えないテクストなのだが、爾後のための覚え書きとして。

「引き裂く」と同時に「顕現」させること、顕現させるために引き裂くこと――覆い[ルビ:ヴェール]を非難するという、固有の意味で開示的な身振り。引き裂かれたヴェール、ヴェールを剥ぎ取られた真実、こうして傷つけられた繊維の構造は、布をもまた想起させる。それは、たった今アルトーが描写していた画布である。それは、呪術的イントネーション、非=実利的な(非=コミュニケーション的、非=表象的な)言語が基底材そのものを引き裂くということではない。また、下方におのれを保持しているもの、たとえばここで或る風景を爆撃しつつ「従属」せしめている天の炎の下におのれを保持しているすべてが、基底材と混同されうるわけではもちろんない。表象の主体かつ客体としてある風景の「従属」は、基底材の上に表象されて存在しているものに所属しているのだが、かくしてこのとき、基底材それ自身もまた下方に横たわるものとして存在しているのだ。にもかかわらず、まさしく基底材の舞台全体を組織している換喩によって、二つの表面は互いに置き換えられることになろう――アルトーの作品の中で、そして彼の手の下で。[…]一枚のタブローとして[引用者註:ルカス・ファン・デン・ウェイデンの《ロトとその娘たち》]、そしてさらには画家による炎の描写として、このように描写されて存在するものが、数年後には、実際に基底材の上にじかに生起することになるということを。すなわち、アルトーはそこに炎をもたらす、マッチ棒の助けを借りて紙にところどころ穴を開けるのだ、そして焼け焦げによる穿孔の跡が一つの作品に所属することになるのだが、この作品においては、区別することは不可能なのである――表象の主題とこの主題の支持体とを、材質の様々な層において、上部と下部とを、従って主題とその外部とを、表象とその他者とを。一つの破壊がかかっているのだ。
(上掲書、50-51ページ。)

「手段」のあらゆる異質なカテゴリーが同じ系列の中で故意に結びつけられており、これらこそ「純粋絵画」の諸手段なのである――空や平原といった表象されるべき事物もそうであり、芸術家の肉体や用具資材一式もまたそうだ、すなわち絵具が迸り出る場所であり(チューブ)、さらにはまた投射される投擲の二つの支持体ないし集積所、つまり「画布」、そして「イーゼル」というこの支持体の支持体。表現(=搾り出すこと[ルビ:エクスプレシヨン])によっていつでもチューブから噴出する色彩に関して言えば、この色彩はエクリチュールの中で、髪の毛の赤と絵筆の毛との間に、絵筆と「彼の手」の黄色との間に、肉体それ自体と芸術家の用いる道具との間に、或る換喩的な通路を保証している。単純な隣接性によって――「画布、絵筆、彼の赤い髪、絵具のチューブ、彼の黄色い手、彼のイーゼル」。表象の対象である二つの事物に関して言えば、その選択はわれわれがすでに見知っている情景を再現している――高いものと低いもの、つまり一方に、地上に向けて爆撃を性急に仕掛けてゆく高所があり、他方に、平坦であると同時にどっしりしている基体、支持体、基底材、ここでは平原、がある。隣接性はさらにまた、表象の対象ないし主題=主体である「平原」と「画布」、つまり基底材との間の境界を消し去っている。[ここでの「画家」はゴッホのことである。]
(上掲書、64-65ページ。)

まず最初に、重ね合わさった複数の層、諸々の堆積作用で出来た深層系列がある。それは、つまり基底材は、絵画の諸層を支える(=分娩を耐え忍ぶ)能力があると想定されている。しかし、人はたちまち気づいたのだ、これらの表面的な層の下で、底なき底が、今度はそれが図像と化して表面の背後にしりぞいてゆき、このように果てしなく続いてゆくのだということに。基底材が横たわるやいなや、つねに一つ以上の層が存在する。そして、幾つかの可能な支持体が。「新たな支持体」について、アルトーは何を語っただろう、何を語らなかっただろう。そして、綜合的な声について?
(上掲書、149ページ。)

『絵画の真理』で展開されていた「パレルゴン」論も、このアルトー論の基底にある。訳者である松浦氏の巻末解説が、この(illisibleな)テクストの賭金と、そこに現れ出ているデリダの態度とを、明快に解き明かしているだろう。