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東京都写真美術館の「建築×写真 ここのみに在る光」展へ。収蔵品から構成した企画展とのことだが、写真が捉えた建築、写真のみが捉えうる建築について思考を促す、佳作の展示であった。
冒頭に展示されているダゲレオタイプが鏡面のように反射することに驚く。正対したのでは何が写っているのか分からず、下から角度をつけて覗き込むとはっきり見える。
アジェをはじめ、人物や動くものがほとんど写っていない写真が多く(シャッタースピードが遅かった時代の写真は、当然この種の運動は捨象されてしまうのだが)、あくまでも仮初めの無人の静謐さという印象が、技術的な必然によって、あるいは撮影者によるフレーミングによって出現していることに改めて気づく。
ルーヴル宮の壁面をペディメントと同じ高さから写したバルデュスの写真には、私自身何度か訪れたことがあるはずの有名な美術館の細部の装飾が、このようになっていたのかと驚かされた。よく指摘されてきたことであろうが、とりわけ建築のような巨大さを特徴とする対象については、人間の身体と眼では得ることのできない視覚が、写真によってもたらされていることを思い知らされる。
写真は広大な建築物を遠距離から、あるいは高所から一望の元に捉えることを可能にするが(展覧会出品作ではとりわけ宮本隆司による九龍城砦)、他方ではフレーミングやクロースアップによって、ときに直ちには同定できないような細部へと視線を注がせる効果もあるのだということを、渡辺義雄(伊勢神宮)や石元泰博(桂離宮)、瀧本幹也(ル・コルビュジエ設計の建築)の写真から実感した。
売店で展覧会カタログ、『エクリヲ』第9号(特集1:写真のメタモルフォーゼ)、柳宗悦『蒐集物語』、それからマン・レイがモンパルナスのキキを写した《アングルのヴァイオリン》のマグネットを購う。ちょうど自分が大学院時代に触れた写真論の言説では、もはや現在の写真(的な何か)をめぐる状況を掬い取れないと思っていたときだったので、デジタル・サイネージやInstagram、iPhoneのLive Photos機能、SNS、自撮りと加工から写真的なものの動画化までを視野に収め、「現在の写真」を思考する言語を紡ぎ出そうとしている『エクリヲ』は示唆になった。
柳宗悦は、ふと目に止まって衝動買い。若い頃にはインテリ上流階級が無名の民衆による「下手物」に逆説的な美を見出す、という「民藝」の図式に批判的だったのだが、もういい歳だしここらで一度虚心に読んでみようかと。それから、美術品・名品であれささやかなオブジェや文房具であれ、誰かが自分の気に入りの物を語っている文章が好きということもあり。瞬時に全体を予備知識を介入させずに見る「直観」の強調や、雑器・民器という言葉遣い、そして至上の茶器が見出されたときは農家で鶏の餌入れになっていた挿話――素晴らしい器は無名の工匠により作られ、無名の民衆の日常に用いられているが、しかしその民衆は器の価値を自覚しておらず、外部から来た「目利き」による再発見が必要なのである――など、「目利きの言説」の一類型としても色々と面白いのだが、それ以上に紹介されている曾我屏風の空間構成に度肝を抜かれた。