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- 作者: W・ベンヤミン,今村仁司,三島憲一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
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過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象の中でこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、一つの状況[ルビ:コンステラツィオーン]を作り上げるのである。言い換えれば、形象は静止状態の弁証法である。なぜならば、現在が過去に対して持つ関係は、純粋に時間的・連続的なものであるが、かつてあったものがこの今に対して持つ関係は弁証法的だからである。つまり、進行的なものではなく、形象であり、飛躍的である。――弁証法的な形象のみが真の(つまりアルカイックでない)形象である。そしてこの形象にわれわれが出会う場、それは言語である。■目覚め■ [N2a, 3]
(上掲書、184ページ、赤字は引用者)
形象[Bilder]を現象学における「本質性」と区別する点は、形象がもっている歴史的な指標[Index]である。[…]形象が歴史的な指標を帯びているということは、ただ単に形象がある特定の時代に固有のものであるということのみならず、形象というものはなによりもある特定の時代においてはじめて解読可能なものとなるということを意味している。しかも、「解読可能」となるということは、形象の内部で進展する運動が、特定の危機的な時点に至ったということなのである。そのつどの現在は、その現在と同時的なさまざまな形象によって規定されている。そのつどの今[Jetzt]は、ある特定の認識が可能であるような今なのである。この今においてこそ、真理には爆発せんばかりに時間という爆薬が装填されている。(他でもなくこの爆発こそが、意図の死なのである。そしてこの死と同時に真に歴史的な時間、真理の時間が誕生するのだ。)[中略(N2a, 3と重複)]解読された形象、すなわち認識が可能となるこの今における形象は、すべての解読の根底にある、批判的・危機的で、危険な瞬間の刻印を最高度に帯びているのだ。[N3, 1]
(上掲書、185-186ページ)
弁証法的形象のうちでは、かつてある特定の時代に存在したものは、常に「ずっと以前から存在し続けたもの」でもある。しかし、そのようなものとしてのかつてあったものが出現するのは、それぞれある特定の時代の眼前においてのみである。つまり、人類が眼をこすりながら、こうした夢の形象をまさに夢の形象として認識するような、そういう時代においてしか現れないのだ。歴史家がこの夢の形象に関して夢解釈[判断]の課題を引き受けるのは、まさにこの瞬間においてなのである。[N4, 1]
(上掲書、190ページ)