ストローブ=ユイレを考え(続け)る

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

ドゥルーズは、「ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ 」と言う。サイレント映画における見られるイメージと読まれるイメージの分裂を肥えて、現代的映画では「視覚的イメージ全体が読まれなければならな*1」くなっているとドゥルーズは言う。そして、ストローブ=ユイレにおいてはとりわけ顕著に、書字的な諸要素が、つまり碑文や岩に刻まれた銘文が、視覚的イメージの中に陥入していると指摘する。


現代映画(ネオレアリスモやヌーヴェル・ヴァーグ)による「感覚運動」の崩壊がもたらした影響について、ドゥルーズは声と言語の決定的な変化(「自由間接話法」)を挙げた後に、視覚的イメージにおいても、空虚で分断された地層的な空間を現出させたと説く。空隙を含む諸層へと送り返され、考古学的で構造地質学的なものと化した視覚的イメージの極北は、ドゥルーズによればストローブ的ショット(プラン・ストロビアン)である。

だがそれ[考古学的、層位学的、構造地質学的なものと化した視覚的イメージ]は、さらに本質的にはストローブの空虚で間隙をはらんだ層位学的風景であり、そこでは、カメラの運動は(それが生じるときは、ことにパンにおいて)かつて起きたことについて抽象的曲線を描いており、大地は埋蔵しているものによって価値をもっている。レジスタンスが武器を隠した『オトン』の洞窟、『フォルティーニ/シナイの犬たち』の中の、民間人が虐殺された大理石の石切り場とイタリアの田園、生け贄となった犠牲者の血で肥えた『雲から抵抗へ』の麦畑(あるいは草とアカシアのショット)、『早すぎる、遅すぎる』のフランスとエジプトの田園。ストローブ的ショットとは何か、という問いに対しては、層位学の概説書におけるように、それは消滅した諸層の破線と、まだ触れることができる層相にみちた線を含んだ断面であると答えることができる。ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ。
ジル・ドゥルーズ『シネマ二 時間イメージ』宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年、337ページ。)

純粋な言語行為、本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの作品の第一の様相である。この行為は、読まれる支持体、書物、手紙、記録文書からもぎとられなければならない。もぎとることは、激怒や情熱によってなされるのではない。それは、テクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうそのテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為をテクストから引き出す努力を前提とする。『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』では、バッハ自身の手紙と息子の証言を、アンナ・マグダレーナのものと思われる声が述べるので、彼女はバッハが書き、話したように話すことになり、一種の自由間接話法に近づく。『フォルティーニ/シナイの犬たち』では、本が見え、そのページも見え、手がページをめくり、フォルティーニは彼自身が選んだわけではないパッセージを読むのだが、執筆の10年後なので、「自分が語るのを聴く」立場に彼は還元されており、疲労に襲われ、その声は、驚きや混迷、または同意、自分のものと認められない感じ、あるいはどこかで聞いた感じなどを次々移っていく。そして確かに『オトン』は、テクストも演劇の上演も見せないが、大部分の役者が言葉を流暢に操っていない(イタリア、イギリス、アルゼンチンの訛り)のせいで、それらを内に含むことになる。彼らが上演からもぎとるのは映画的行為であり、テクストからもぎとるのはリズムやテンポであり、言語からもぎとるのは「失語症」である
(上掲書、348-349ページ。)

*1:ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』337ページ