活人画の時間:テクスト、映画、写真
ふとこんなことを考えた。写真じみた静止画像が時折挿入される映画版『他人の顔』(勅使河原宏監督、安部公房原作・脚本)は、文章の間に写真が挟まれる安部公房の小説『箱男』と呼応しているのではないか、とふと考えた。映画とテクスト/書籍という媒体の違いはあるが、いずれもクロノロジカルに展開する物語の時間が、静止画によって一瞬停止する。
それに対して、活人画を主題にした映画では、『リコッタ』(パゾリーニ監督、『RoGoPaG』所収)であれ『ロベルトは今夜』(ピエール・ジュッカ監督、クロソウスキー原作)であれ、『カラヴァッジョ』(デレク・ジャーマン監督)であれ『パッション』(ゴダール監督)であれ、ポーズ完成の瞬間を静止画として、つまり映画内写真として写すことは徹底して禁じ手となっている。だから、映像の中では活人画の完成する瞬間は永遠に訪れない。常に映像は動き続け、時間は流れ続けるからだ。それゆえに、「活人画を撮るメタ映画」(『リコッタ』、『パッション』)は、失敗に終わることを初めから宿命づけられているのだ。
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ジャーマンの『カラヴァッジオ』、10年くらい前にはこういう分かりやすく「絵画的」な映画が好きだったが、今観るといろいろと突っ込みどころが。そのほとんどは、「活人画の生成過程を動画に収める」ことに由来しているのではないかという予感がある。当然ながら絵画に描かれるのは「一瞬を静止させた」場面で、特にカラヴァッジョは劇的でダイナミックな動作の一瞬を、あたかもシャッタースピードの速いカメラのように捉えた作品も多いので、そこに時間の持続や生身の身体や運動が持ち込まれると、「絵画作品の特権性」みたいなものは崩壊してしまう。退屈したモデルたちがあくびをしたり居眠りしたり、絵画用の静止したポーズから解放されて一斉にだらけ始めたりする場面は、「活人画映画」の綻びを自覚した上でのアイロニーにも見える。画家が眼を向ける間だけモデルたちが真面目に静止してポーズをとる様は、もはや「だるまさんが転んだ」のようで笑ってしまう。屍体を用いた活人画も二回登場する。溺死した女性の亡骸をモデルに《聖母の死》を描く場面と、画家自身の死せる身体が《キリスト埋葬》の活人画を構成する場面と。動かない屍体は活人画に最適なのだが、映画で演ずるのは生命ある俳優だから、例えばカラヴァッジョ役の俳優の目蓋が少し震えているのが見えてしまったりする。つまりここでは、活人画と映画の双方が前提としているフィクションが、俳優の「生身」によって綻んでいるのではないかと思う。
映画版『ロベルトは今夜』については、監督ピエール・ジュッカが映画スチル写真家でもあったこと「活人画映画」との逆説的な(?)関係や、クロソウスキーのステレオタイプ論やシミュラクル論(さらにはヴァールブルクの情念定型概念)と「固まるポーズ」との関係を、もう少し突き詰めて考えてみたい。
参考文献メモ:『カラヴァッジョ鑑』収録の篠原資明論考、岡田温司『映画は絵画のように』、ボニゼール『歪曲するフレーム』、また田中純『イメージの自然史』と『都市の詩学』のクロソウスキーへの言及部分。