書物について―その形而下学と形而上学

書物について―その形而下学と形而上学

再読中。
いくつか、メモ代りに抜き書きを。

書物は、その物質性と切りはなせない。書物とは、いわば、テクストを発生・顕現させる物質的な装置なのであり、わたしたちは書物においてはじめてテクストと出会う。
(4ページ)

死者を葬った目印として置かれた石は[…]ある記憶を封じこめ、それをふたたび見るとき、記憶が蘇ってくるような記憶装置。[…]それこそは、《書物》に他ならない。
(19ページ)
(もっとも、石碑は持ち運びが出来ないという点で書物とは異なる、と著者は指摘している。)

プラトンの世代[書字文化に対するダブル・バインド]からアリストテレスの世代にかけて書物についての意識が変わり、書物は知の貯蔵庫であると同時に知の訓練と発展のための装置と見なされるようになった。
(46ページ)

たとえばホラチウスは、「我ハ青銅ヨリモ永続スル記念碑ヲ建立セリ」と言って、自分の書く言葉が書物というかたちをとったとき、その永続性は青銅や石の記念碑にまさって、原理として永遠の生命をもつことを語った。(115ページ)

多くの要素をつぎつぎと列挙してゆくユゴーの[『九十三年』における]饒舌は、断片の集合、ひしめく堆積という彼のファンタスムの言語的現れにほかならない。堅固な表面=装幀の下に隠されたこの記念建造物自体のもつ、古い要素の寄せ集め性が子どもたちの手で明るみに出される。挿絵版画の一枚をひき裂いたことをきっかけに、版画はつぎつぎとひき裂かれ、「分厚い四折り本はどさりと墜落し、こわれ、折れまがり、ずたずたに引きちぎられ、装幀はばらばらになり、閉じ金ははずれひしゃげた哀れな姿で床のうえにのびてしまった」。さらに子どもたちは「笑いころげながら」襲いかかり、聖人たち、聖書注釈者たち、神父たちの肖像d飾られたこの本をめちゃめちゃにしてしまう。「歴史、伝説、科学、真実もしくは偽りの奇蹟、教会ラテン語、迷信、狂信、秘蹟……」それらが切り刻まれる。そして最期に子どもたちは、飛び散った紙を床の上から拾いあげて、窓から飛ばしはじめる。白い紙切れの群れが風の吹くままに乱れ、飛び散ってゆくのを不思議そうに眺めていたいちばん年下の女の子が、ぽつんとつぶやく、「ちょうちょ」と。(199ページ)

抑圧の壁による固定化からひきはなされて白い蝶のように飛び散る紙片は、書物の本質をなす動性――書物の本質とはそのページのうえから飛びたつなにものかにある――を鮮明に象徴しているだろう。いや、《塔=堆積》《壁=断片》という矛盾のファンタスムの持ち主であった幻視家ユゴーには、書物が真に書物となるためには解体されねばならぬという、やがてマラルメの《書物》において明確に輪郭づけられることになるいわば《廃墟としての書物》のヴィジョンを抱いていたというふうにも考えられるのだ。(200ページ。)