ストローブ=ユイレと言語の問題

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

純粋な言語行為、本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの作品の第一の様相である。この行為は、読まれる支持体、書物、手紙、記録文書からもぎとられなければならない。もぎとることは、激怒や情熱によってなされるのではない。それは、テクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうそのテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為をテクストから引き出す努力を前提とする。『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』では、バッハ自身の手紙と息子の証言を、アンナ・マグダレーナのものと思われる声が述べるので、彼女はバッハが書き、話したように話すことになり、一種の自由間接話法に近づく。『フォルティーニ/シナイの犬たち』では、本が見え、そのページも見え、手がページをめくり、フォルティーニは彼自身が選んだわけではないパッセージを読むのだが、執筆の十年後なので、「自分が語るのを聴く」立場に彼は還元されており、疲労に襲われ、その声は、驚きや混迷、または同意、自分のものと認められない感じ、あるいはどこかで聞いた感じなどを次々移っていく。そして確かに『オトン』は、テクストも演劇の上演も見せないが、大部分の訳者が言葉を流暢に操っていない(イタリア、イギリス、アルゼンチンの訛り)せいで、それらを内に含むことになる。彼らが上演からもぎとるのは映画的行為であり、テクストからもぎとるのはリズムやテンポであり、言語からもぎとるのは「失語症」である
ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年、348-349ページ。)