カタストロフィの表象

別に震災に触発されたわけではなく、余りにも延び延びになっている単著企画を一気に進めるために、ここしばらくは「1755年のリスボン地震」と「ディザスターによってもたらされた死の表象」について、集中して調べている。後者に関して、屍体専門の写真家であり、『死化粧師オロスコ』の制作者でもある釣崎清隆氏が、『トーキングヘッズ』の「カタストロフィー セカイの終わりのワンダーランド」特集号に寄稿していたエッセーがとても示唆的だったので、一部分をメモ代わりに抜粋しておく。

米国文明が1920年代に死を隠蔽しようとしたのには理がある。産業革命以降、ヒトの死に様はそれ以前とは劇的に変化した。それは明らかに前近代のそれと比べて圧倒的に惨いのである。都市化で起こった人間関係の変化、人間性の荒廃は人殺しの性質を根本的に変え、組織犯罪の延長ともいえる戦争でヒトは爆破したり被爆したりして、ちりぢりバラバラどろどろになって死んだ。しかもそれは世界大戦で天文学的数字にまでエスカレートした。
紛争は歴史上絶えることがないが、世界中の平和な日常の中でさえ人は、かなりの確率で、理不尽にバラバラにされ、自分の骨が折れる音を聞きながら潰される。車によって。それらは確かに見た目に惨い。ヒトが社会の代替可能な部品と化した神なき孤独な世界で、文明人は死を極端に恐れ始めることになるのである。
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個人としては物理的制御不可能な巨大にして強力、そして高速な生産の動力システムにヒトはいとも簡単に粉砕されることになり、やがて生産現場内に留まっていた惨劇は、商品としての殺人機械の大量流出で米国の大都市のいたるところで日常的に起きることになった。モータリゼーションによって都市の路上で頻発することになったのは、ヒトを内蔵するほど大きな、ヒトの骨肉の柔さとは比較するまでもない鋼鉄の塊が、ヒトを乗せて走るという目的からいってそれと比較するまでもない高速度で、ヒトとは比較にならぬほどしばしば誤作動して、ヒトの頭蓋骨を割って脳味噌を飛ばし、手足を轢断し、からだ中の骨を折り肉を断ち、腹を割いて内臓物を暴露された、それまで歴史上滅多に発生しなかった、野生の獣の仕業よりも無慈悲な死に様の遺体の日常的出現、交通事故という社会問題であった。
釣崎清隆破局[ルビ:カタストロフィー]としての死の観想」『トーキングヘッズ』No.39、32-33ページ。)

釣崎氏の作品を初めて知ったときには、例えばアンドレス・セラーノ(モルグ・シリーズ)や藤原新也メメント・モリ)がポエティックかつアーティスティックな「作品性」をたたえているのとは対照的に、リアルでグロテスクな屍体そのものを突きつけることで、観る者にショックを与える作風だと理解していた。しかし、作品を何枚か見ていくと、例えば構図の取り方やフレーミングの仕方(『フレーム外』として除外する部分の選び方)に、やはり「作品」が成立するだけの構築性があることに気付く。そこでは屍体のグロテスクさや、死をもたらした惨劇の暴力性が「距離化」され、作品として享受できるだけの「遠さ」が発生する。それでは、いわゆるヴァナキュラーなグロテスク・イメージ――例えば惨事の場に居合わせた素人観衆が携帯で撮影した映像――がより「近い」のかと言われれば、そういうものでもないだろう。