思考の屑篭

祝祭的建築について
一.エフェメラル・アーキテクチャ
本来は永続性を担保された存在である建築物に「瞬間性」を付与する試みは、「廃墟」とはまた異なる形態を採ることもあった。アンシャン・レジーム期から革命祭典に至るまでしきりに造成された、祝祭用の仮設建造物である。
上述の二者に体現されている政治性は、一見すると真逆のものに思われる。「瞬時的廃墟」が、旧秩序の破壊とそれがもたらすカルナヴァレスクで爆発的な高揚を示唆するのに対して、祝祭用建造物は現行の秩序を肯定し称揚するための装置であり、意識的な演出が隈なく張り巡らされているからである。前者の崩落が突発的な暴力によるものであるのに比べ、後者の「仮設性」は当初より企図されていたものであり、祝祭の非日常性、特殊性を昂進させるための戦略の一つである。しかし、建築物を成立させ、それを取り巻いている「時間」に注目するならば、崩落する建築と祝祭用仮設建築という二種類の建築のあり方は、その「瞬間性」や「非永続性」――スタティックな風景ではなく、瞬時に変化する光景――という点において底を通じているであろう。
これら仮設建築は、ソリッドな構造を有し一定期間持続する性質の建築物ではなく、その仮そめの模型である。かかる「代理性」と「仮設性」は、祭典での国王の身体――人形のような代理物によって表象される――とも通底しているであろう。(18世紀の祝祭論との連関?)


二.空白と浮遊性
フランス革命から四年後の一七九三年八月一〇日には、画家ダヴィッドの総指揮の下、革命大祭典が執り行われた(図26)。この大祭典における建築物の扱いの二種は、示唆的である。一つは上述の「仮設的建築物」であるが、もう一つは記念碑的建築物の廃墟を、「空虚」として扱うという発想である。革命史研究の第一人者モナ・オズーフは、かつてバスティーユ牢獄が存在していた場所が「空白(vide)」として扱われたことを指摘している。

祭典プランの注釈者たちはさらにバスチーユの空間への解消を強調する。祭りの場は「一目で見渡せる」ようなものでなければならない。それは「空白」(vide)でなければならないのである。もちろんそれは当時の人々にとっては十分に雄弁な空白なのだ。「それは、何もなく廃墟でしかないことが我々の目をひくような場所であり、ひとつの碑文さえあればどんな有名なモニュメントにも匹敵するような場所なのだ。パリの市民は、巨大な柱廊玄関(portiques)よりも、この見捨てられた場所の方を好む。」バスチーユは、祭典プログラムの中では常に「砂漠」として描かれる。 (129ページ)

この「空白」(あるいは空虚と訳すことも可能だ)は、革命によって除去された存在が、依然として不在であることを示唆している。この「空白」がもたらされる、まさにその瞬間に行われた破壊を描いたのが、ロベールの《取り壊しの初日のバスティーユ牢獄》(図1)に他ならなかった。
 祝祭によって都市空間は再編されてゆく。革命記念祭典のメインは行列の行進であったが、この通行の妨げになる建造物は次々と破壊された。構造物の物理的破壊のみならず、祝祭は都市の既存の秩序を「解体」するものである。再びオズーフの言を借りるならば、革命祭典は「新しい交通の流れをつくり出し、関心を新しい中心地に移動させ、禁止区域を解放する (126ページ)」のである。

引用はこちらの書籍から。

革命祭典―フランス革命における祭りと祭典行列

革命祭典―フランス革命における祭りと祭典行列