Narrative Space関連文献
- ジョルジュ・プーレ『円環の変貌』岡三郎訳、国文社、1990年(初版:1973年)
周囲の世界を「見る」人として、作中人物や語り手を捉える。特にフローベールに関する章。
方法論的な背景にあるのは、ハイデガー、フッサール、バシュラールなどの現象学的空間論、それからロトマンの空間類型学などの記号論だろうか。メインの分析対象は日本近代文学だが、西洋の古典的名作と日本の近現代(当時の)小説との間を縦横無尽に往還しつつ、筆が進められていく。個人的関心から面白いと思ったのは、立原道造による自室をモティーフにしたソネット「私のかへつて来るのは」と、田中康夫『なんとなくクリスタル』に登場する女子大生モデルの部屋の描写との比較である。すなわち、前者は「私の存在」が即している「場所」であり、外部と対比される内部空間であるのに対して、カタログ的ないし辞書的構造を持つ後者では、従来の物語的時間が解体されている、と前田は指摘している。
[『なんとなくクリスタル』の]読者は注のナンバー毎に末尾のNOTESをいちいち確かめる手続きを欠かせないはずで、物語的時間の自然な流れはその都度中断される。この読書法は、おそらく索引を手がかりに風俗やイベントの情報を検索するカタログ誌やタウン情報誌の使用法に近似したものになるにちがいない。はじめから終わりまで読みすすめる文学読書のタテマエから、私たちはこうした辞書的な読み方を拒絶するが、このテクストが物語的時間を解体し、無化して行く非文学的な構造を潜在させていることは確認しておく必要がある。カタログ誌やタウン情報誌のスタイルとホモロジカルなテクスト構造なのである。カタログ誌やタウン情報誌にあつめられた情報は、原則的には価値の序列が消去されている無機的な点の集合に見立てることができる。テクスト自体には点と点を連結するベクトルは与えられておらず、それらの点は使用者の欲望に応じて恣意的に選択され、配列されるのだ。(上掲書、63ページ)
ここで前田が問題としているのは、カタログ誌というバブル期の日本の「認識と思考の枠組」を象徴するようなメディアであるが、これが18世紀的な「辞典」や図版入りカタログ(例えばチッペンデールの家具カタログ)であったらどうであろうか?「価値の序列の消去された点の集合」という点で、構造的には共通しているが、それを「読む」者の欲望と、世界への眼差しのあり方は、やはり決定的に違っていたと考えるべきだろう。あまりにも当然のことだが、18世紀の辞典・カタログの背景にあるのは、世界を明瞭で平坦な可視性・記述可能性(ひいては掌握可能性)の下に置こうとする欲望であって、消費社会を背景に商品に対する即物的な欲望の喚起システムが整い始めた日本のバブル期とは、背景にある心性が決定的に異なっている。
西村清和『イメージの修辞学――ことばと形象の交叉』三元社、2009年。
ルイ・マラン『ユートピア的なもの――空間の遊戯』梶野吉郎訳、法政大学出版会、1995年。