西欧近代とエロティシズム

オルガスムの歴史

オルガスムの歴史

ミュッシャンブレは「心性mentalitéの歴史学」畑の歴史家。『オルガスムの歴史』は邦訳書題こそ好事家向けのイロモノっぽさが漂うものの、方法論的には正統のアナール学派であり、著者の歴史意識にも確固としたものがある。本書では、統計資料(無名・無個性な個人の集合体としての数字)と、各時代に特徴的な「表現」(文学・思想・絵画…)の両面から、西洋近代(16世紀から今日まで)の性愛にまつわる現象と表象を浮かび上がらせていく手法が採られている。フーコーの『性の歴史』や「生-権力(bio-pouvoir)」概念については、矮小化した理解に基づいて批判している感が否めないし、20世紀以降の(特に合衆国の)状況についての記述は、単純化されたジェンダー論の枠組に依存しすぎている印象も受けるが、力作であることは間違いないと思う。
18世紀について書かれた部分からは、性愛文学が隆盛した(性愛的情念というものが注目されるに至った)背景には、必然的理由があったことが分かる。以下は自分の研究テーマと絡めたメモ。

解剖学講義というまったく別の領域で、十七世紀はじめに描かれた図像にも、やはりヴェザリウスから受け継いだ同心円状の舞台装置が表現されていた。それは1610年に描かれたライデン大学の解剖学教室で、真ん中には死体が置かれ、その周りを階段席が何重にも円形に取り囲んでいる。教室は四角い部屋で。階段席の最上段の木の柵の外側を野次馬が歩き回っている。解剖される身体を中心に据え、それを伝統的な円形で取り囲んでいるということは。衆人環視の瀆聖行為に神の徴しを付与しているということである。なぜ瀆聖かと言えば、解剖とは。造物主の似姿としてつくられた存在の内部を覗こうとする行為だからである。イギリスの神学者ジョン・ウィームズはその著『人に見いだされたる神のイメージの写し絵』で、解剖学と宗教を和解させるために議論を逆転させ、解剖学によって全能の主の御業をよりよく知ることができると断言する。しかしタブーは現代にも完全にはなくなっていない。身体の内部は20世紀の外科医に「メドゥーサの首」と名付けられていた、それはいまでも見る者に、自分もまた死すべき存在であることを思い出させるのだ。
(上掲書、105-106ページ。)

  • ゲイル・カーン・パスターによる「狼狽する身体」という概念規定。エリザベス朝の演劇に見られる、液体を漏らし、体液を濫用することで観客を狼狽させる手法。バフチン的な「穴が開き、糞尿が溢れかえる、グロテスクな身体」と、「生理的機能の制御」との間に発生する狼狽。(失禁ネタがお笑いにもポルノグラフィーにも結びつきうるのは、この「狼狽」ゆえなのではないだろうか。)17世紀のオランダ風俗画でしばしば描かれた「野外や人前で小便をする人間」の像→それを「笑う」ことで、中流・富裕層の人間は粗野な田舎者と文明化された身体訓練を経ている自分たちとを差異化する。
  • ポルノグラフィーの語は、1769年にレチフ・ド・ラ・ブルトンヌによって、売春についての書物を指して使用されたのがフランスにおける初出。これが1806年には、社会秩序を紊乱し道徳規範に違反する猥褻な文書・図画の謂いとなる。
  • 1662年、『ミューズの淫売屋あるいは9人の売女神』というポルノグラフィーを刊行しようとした若い弁護士クロード・ド・プティは逮捕され、瀆聖のかどで公開処刑とされた。これはルイ14世即位直後という政治的状況の中、「神に対する不敬」を働いた人間に対する「見せしめ」としての処罰であった。

若き太陽王ルイ14世の治下では、快楽のために死ぬ可能性が、少なくともそれを声高に語れば死ぬ可能性があったわけである。しかし訴訟は例外的だった。パリの社交界も宮廷も、貞淑な世界からほど遠かったのであるから。訴訟の狙いは何かと言えば、犯罪者の瀆神と、エロティックな言説が隠し持っている道徳秩序の転覆という危険にかんして、観衆に刑罰の恐怖を植えつけることであり、そうした言説の露骨な性質はむしろ問題ではない。政治的宗教的権威がそうした事態にとりわけ敏感であったのは、それがフロンドの乱が引き起こした無秩序を思い出させ、また無秩序を継続させるものだからだ。
(上掲書、163ページ)

ポルノグラフィーというものは侵犯の文学である。しかしそれは、実は何よりもまず、ある礼節の規則の内部に身を置いて、倒錯を喚起することを自らに禁じているのである。[…]作家たちはポルノという遠回りの手段を用いて、因襲からはずれた、時に異端的であったり宗教的リベルタンの自由思想に近かったりする自らの思想を開陳し、科学や自然哲学への信奉と、既成権威に対する不信を表明した。1650年代から90年代までのあいだに、ポルノグラフィーのメッセージが練り上げられていったのは、学問上の新しい言説と時と所を同じくしていた。それは社会的人間関係の網の目が変化しつつあった大都市のことであり、そこでの人びとのありようは、より分裂し、より個人的なものになりつつあった。またそこには自分自身の存在を認識するために、身体と空間を概念化する必要も生じていた。罪の概念の衰退も都市的な、また科学的な現象であったが、それも一役買っていた。イギリスではクロムウェル時代のピューリタニズムに対する単なる反動だけではなかった。というのもポルノの波はフランスから押し寄せたのであるが、それは王政復古よりも前、早くも1650年代にはやって来て、その後1世紀のあいだ支持されたのである。[…]ヨーロッパ中で、なかでも主にアムステルダム、パリ、ロンドンで、新しい考え方が出現した。偽善と外見だけに基づく社会と一線を画すためには、自然や官能のほうが、既成の権威に守られている法より好ましいという考え方である。政治的、宗教的道徳的検閲の硬化は、ものを書くことに重くのしかかり、性的抑圧の加速は、逆説的なことにポルノ文学を生みだしたのである。というのも、ポルノ文学に生命を与えるのも、それを文化のなかで重要な地位に位置づけるのも、原則と現実のあいだの不一致の証しとしての、権威とその侵犯のせめぎ合いなのである。
(上掲書、177-178ページ。)

ジョリス=カルル・ユイスマンス」に取り憑いた強迫観念は、死をもたらす「大きな梅毒の瘡」が、ぱっくりと空いた膣と一体となるイメージだった。彼はその小説『結婚生活』[原題:En ménage]のなかで、しだいに大きくなっていく女の欲望の変遷を、梅毒の進行にならって、連続する三つの段階にわけて描写されている。ユージェーヌ・ブリウが1901年に書いた戯曲『梅毒病みたち』が、パリのアントワーヌ座で1905年に上演された。画家のフェリシアン・ロップも、このテーマの魅力と不安の両方を反映した絵を描いている。
(上掲書、281ページ。)

18世紀の性愛文学に関しては、以下のような書籍も(邦訳は無し)。
Jean-Marie Goulemot, Ces livres qu'on ne lit que d'une main, Minerve, 1994.
http://www.amazon.fr/dp/2869310714/
「片手で読む本」は、ルソーが『告白』の中で用いている表現。ルソーと言えば、彼は「光の当たる」啓蒙主義の第一人者という印象があったが、下半身事情が凄くて驚く。啓蒙主義新古典主義の時代の人物たちを、明暗、規範と逸脱、理性と狂気といった単純な二項対立で捉えるのはつくづく不毛だと思う。