古典主義時代の性的情念

渡辺守章によれば、ラシーヌの独創は性的な「情念」を悲劇中の人物の中心に据えたことにある。サドのように露骨に「性」がその名で呼ばれることはないが、諸々の情念(政治権力に向かうものですら)が性的な根をもっていると渡辺は指摘する。そして、演劇においてこの「情念」が現れ出るのは、「肉体」というトポスにおいてであった。(参照:渡辺守章「古典主義とその対部」『フランス文学講座第4巻 演劇』大修館書店、1982年、126-127ページ。)
この点、ルドゥー(男根型のプランを持つ建築オイケマを構想)、サド、フーリエ(性愛と情念によるユートピア)、ルクー(性器への解剖学的興味と性交を覗き見することへのオブセッシヴな欲望)などの「新古典主義啓蒙主義の逸脱者」の系譜に繋がりそうに思えたのだけれど、ラシーヌは彼らより1世紀古い世代。もちろん両者の「性的情念」は連続的なものだと思われるが、安直に同一のカテゴリに入れて論ずるのも乱暴だな。