中世のフォロ・ロマーノ

廃墟論

廃墟論

古典期のローマが崩壊してから18世紀にいたるまで、フォーラムで見かける建物といえば、大理石を焼いて石灰を作る人たちの小屋か、乞食や泥棒のあばら屋だけだった。中世のキリスト教巡礼者たちにとっての古代の廃墟は、もはや、彼らと同じ人間の作ったものではなく、民話に出てくる不可思議な巨人の作り出したものだった。コロセウムはドーム型をした「太陽の神殿」と考えられていた。フォーラムはどうかというと、すでにここは、じめじめとした、たまらない悪臭を発する荒野と化していて、ひとつの聖地から次の聖地へと向かう巡礼のコースからはつねに外されていた。1155年に、ローマに侵攻したフリードリヒ・バルバロッサの軍隊にいた兵隊が、ローマの廃墟の様子を記している。緑色の蛇が廃墟をはい回り、黒いヒキガエルがたむろしていて、翼をもつ竜の吐く息や、腐乱した何千というドイツ人の死体のために、あたりの空気は毒気を帯びていたという。アスクのアダムがヘンリー5世統治下のイギリスからローマにやってきたときに見かけたものは、サン・ピエトロ大聖堂の外で吠え合っている犬の姿だった。「おお、何とローマは惨めな状態になってしまったのだろう。かつてこの都市は大いなる貴族や宮殿で満ちあふれていた。それがどうだろう。今はあばら屋とこそ泥ばかりで、狼や害虫があたりを徘徊している。ローマ人は自らの手で、自らの身体をずたずたに引き裂いてしまった」。(23-24ページ)

トランジ(虫や蛇、ヒキガエルの這い回る腐乱死体の彫像)を思わせる廃墟描写である。じめじめした土へと建築物が崩壊していくという点では、緩慢な「アッシャー家の崩壊」とも言える。