「窓ガラス」のテマティックに関連して、お勧め頂いたヒッチコックの『バルカン超特急』を観る。
憶えることと忘れること、視覚的記憶の確かさと聴覚(的記憶)の不確かさや機能不全というテーマが横臥しているように思う。 外国語であるが故に、あるいは周囲の騒音故に、目的を果たせない会話。 (このような聴覚の機能不全を、比喩的な意味での聾唖性と捉えてみることも可能かもしれない。)記銘すべき旋律をうっかり忘却してしまう青年。 忽然と姿を消した老婦人の服装を、ハンカチーフの色まで克明に覚えているヒロイン(その名もアイリス=虹彩、眼に関わる名前だ)。 窓ガラスにうっすらと浮かび上がる、老婦人が書いた彼女の苗字。 窓ガラスに貼りついたハーブティーのパッケージに印刷されている文字(この文字もまた、老婦人の実在を示唆する重要な鍵となる)。「フロイ」の名を「フロイト」と聞き間違える場面は、その意味で(今となってはベタな感じもするが)示唆的である。
アイリス嬢が身につけているスカーフとクラッチバッグには、彼女のイニシャルIHがあしらわれていて、ヒッチコックは「名前を示す文字」に対するフェティシズムでもあるのかと思う。(『見知らぬ乗客』にも、二人のイニシャルをあしらったライターと名前をデザインしたタイピンが登場し、物語の中で重要な鍵となる。)
クリケットに対する情熱を、たびたび挫かれたり延期させられたりしてしまう、英国紳士二人連れを取り巻く「サスペンス」もまたコミカルで可笑しい。最後に判明する、肩透かしな事実は爆笑もの。 こういう「笑い」が平行して描かれているところも、この作品の魅力だと思う。
列車にまつわるショットも、ひとつひとつが今見ても斬新で驚く。雪山を背景にした駅の光景などは、かなり分かり易い合成画面なのだが、その視覚的な不自然さが逆に面白い。車窓の風景も、明らかに合成と分かる(映画研究がご専門の方によれば、リアプロジェクションという技法を用いているとのこと)。
ここでは列車の「窓」は、鍵となる文字の浮かび上がる支持体であり、また合成された車窓風景が嵌め込まれる額縁ともなっている。スクリーンの中に入れ子状になったもう一つのスクリーンとして、(鏡のみならず)「窓」を捉えてみることもできるのではないか。

一緒に借りてきたヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』も鑑賞。
ヴィスコンティ映画は「上流階級の室内において、《美術品》がいかに展示されているか」という観点から見ても面白い。例えば、『家族の肖像』の老教授の部屋に飾られた、(おそらくイギリスの)風景画。『地獄に堕ちた勇者ども』でも、肖像画や風景画、彫刻、美しい装丁の書物が詰まった棚などが数多く登場するのだが(ちなみに、進歩派のヘルヴェルトの部屋には、マティス風の近代絵画が飾られているのが印象的)、それ以上に「写真」の飾られ方が面白い。公爵邸のマントルピースやティーテーブル上に並べられた家族の写真、大製鉄会社のオフィスに掲げられた、創業者であるエッセンベック公爵や総統閣下の肖像写真、マルティンが訪ねる女友達の部屋の鏡台周りに止められている、映画スターのポートレートなどなど。これらが映し出されるときのカメラワークも、「背景」や「小道具」としての扱いに留まらない、独特のものである。(美術作品や画集を、まるでOHPか何かのように正対して映し出す、パラジャーノフゴダールらのカメラワークとも異なっている。)



バルカン超特急』の視覚的記憶から作っていると思しき、Visageのミュージック・クリップ。夜汽車に乗り込んだ青年が、食堂車でのパーティーに出くわすが、そこにいる人々は実は悉く亡霊であり、その証左に窓ガラスにその鏡像が映らない、というストーリーだそうだ。この映像制作を手掛けたのは、なんとVisageのコンポーザーであったミッジ・ユーロ。最初期のゴドレー&クレーム制作のイメージ・クリップに刺激を受けたユーロが、どうしても映像を自作したいと言い出し、実現したのがこの「The Damned Don't Cry」のPVだという。全体的に見れば「素人芸」を免れ得ないのかもしれないが(能面の使い方などは、日本人の目から見ると笑止だ)、映像作品において窓というメタ構造が、「鏡面」ないしは「スクリーン」として機能《しない》ケースとして捉えると、なかなか示唆的な作品である。