「未完成」としての断片と「フェティシズム」

フェティシズムのようなタイプの精神的プロセスが、詩的言語にもっとも共通の転義のひとつにいかに内在しているかを観察するのは興味深い。提喩(そしてそれに一番近い換喩)がそれである。部分によって実現される全体に換えて、その部分を置くこと(あるいはある対象をそれに隣接する別の対象と置き換えること)。フェティシズムにおいてこれに対応するのは、完全な性のパートナーを身体の部分(あるいはそれに付随する対象)で代用することである。[…]換喩的な代用とは、単にある用語の別の用語への置き換えに尽きるわけではないということである。それどころか、代用された用語は、この代用によって否定されると同時に喚起される。そのプロセスの両義性は、フロイトの「否認」をまさに思い起こさせる。言葉に賦与されている特異な詩的潜在力は、まさしくこの種の「否定的参照」から生まれるのである。こうした現象のフェティシズム的な特徴は、次のような特殊な換喩的手続きにおいて顕著なものとなる。それとは、ミケランジェロの「完成されないままの」彫刻に関してヴァザーリとコンディヴィがはじめて批評的に認識して以来、近代芸術に本質的な様式上の手段のひとつとなったもの、つまり「未-完成(ルビ:ノンフィニート)」である。未完成への前ロマン主義的な趣味をさらに押し進めて、パッラーディオ風のヴィッラを半壊させ、人工的な廃墟に変貌させようとしていたギルピンはすでに、彼自身が「天才的な簡潔さ」と呼ぶものが、「部分を全体で代用すること」によって達成されることに気づいていた。シュレーゲルは、予言的にこう宣言する。「多くの古代の作品は、断片となっている。一方、現代の多くの作品は、まさにその誕生からすでに断片となる。」シュレーゲルは、ノヴァーリス同様、完成されたあらゆる作品が必然的にある種の限界に縛られているのに対して、断片のみがその限界を免れていると考えていたのである。この意味で、マラルメ以来の近代の詩のほとんどすべてが断片からなることは、ここに特筆するまでもないだろう。それらは、あるもの(絶対詩)に送り返されているのだが、このあるものは、全体としては決して想起されないばかりか、その否定を通じてのみ現前してくるのである。言語における通常の換喩との違いは、ここでは、代用された対象(つまり断片が送り返される「全体」)が、母のペニスと同じように不在であり、存在もしえないものだという点である。「未-完成」はそれゆえフェティシズム的な「否認」の性格で完璧な「対」となるのである。
ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ――西洋文化における言葉とイメージ――』岡田温司訳、ちくま学芸文庫、2008年(初出:ありな書房、1998年)、69-71ページ。)