人文学だの教養だのの「衰退」や「死」は、(ときには大袈裟なまでに)喧伝されているけれど、自分が思うのはモードも死につつあるのではないかということ。前衛という言葉は疾うに風化しても、分かりやすくアヴァンギャルドなもの、小難しい思考によって語りうるものが未だに評価されるのが、モード、というか、ファッションデザインの世界だったように思う。
自分の感覚では世紀が変ったくらいから、感覚に突き刺さるような新しさへの追求というよりも、郷愁的で甘美なデザインが増えはじめたような感触がある。もちろん社会的な流行の次元では、目に快い服が売れるのは当然だけれども、そこから独立した領域として存在したはずのモードの世界が、だんだん「丸く」なってきているようなのだ。例えば、コムデギャルソンの中で独立ラインを持つ最年少デザイナーの栗原タオも、山本耀司の娘である山本里美も、師匠や父親のテイストは引き継ぎつつも、けっこう分かりやすく「スイート」で「ガーリー」だったりする。
最近足を運んだ「SKIN + BONES」展で、「前衛」として展示されるデザイナーの面子が数年来ほぼ固定化しているのを見た後で、そんなことに思いを馳せていたら、ちょうど『装苑』に装苑賞受賞者が発表されていた。吃驚したのは、受賞作が単純かつ普通に「綺麗、可愛い、私(=現実的な「みっともない身体」の持主)も着てみたい、友人の結婚式(=日常生活のリアルな一場面)に着て行けそう」と思えるものだったことだ。さらには、その作品に対する各審査員のコメントが、なんだかとても象徴的なものに見えたのだ。

津森千里:「作品も自分が着たいと思える服が登場して、だんだん自然な傾向の作品になっていくのかなと思いました。毎回受賞者も男の子の割合が多く、重たい感じの作品が多いのですが、今回の作品は軽くて春らしい洋服で、装苑賞としては昔からのイメージからするとちょっと違うと思いますが、方向性として新しい装苑賞につながっていくと思うと楽しみです。」

菱沼良樹:「中島さん[受賞者]の服は春を感じるとてもきれいな作品で、僕も出てきた時にすごいきれいだと思いました。ただ、これが装苑賞とったらつまらないなとも同時に思いました。」

信國太志:「オリジナリティを出そうとして物作りをしていると思いますが、オリジナリティ=非現実的ということになると、そこにとらわれ過ぎて非現実的なところがそれぞれ似てきてしまう。[…]その中で中島さん[受賞者]はすんなりと現実的に入ってくる作品で、僕自身割と頭でっかちな服作りで結構痛い思いもしているので、自戒の意味も込めて高く評価させていただきました。」

いかにも服飾専門学校生!といういでたちで、なにやら妙にコンセプチュアルで分かったような受賞コメントをぶつ、という伝統に反して、今年の受賞者は良くも悪くもナチュラルで、こちらの気が抜けてしまうくらいだ。目に心地良い自然体の作品が受賞することは、これまでにもあったかもしれない。けれども、ここで問題なのは相対評価で一位になったに過ぎない作品それ自体の性質や属性ではなくて、審査員がその「ナチュラル」な受賞作に(過剰なまでに)新しい時代の反映を読み込んでしまっていること、その作品を選んだ自分に少し驚いているように見えることだろう。
アートの世界からは少し遅れて、「前衛」の最後の砦だったファッションの世界でさえも、「新しさ」や「思弁」を追求することがもはや過去のモードになりつつあるらしいことは、既に進行してしまった事態を、端的に象徴しているように思う。
審査員の信國太志(TAISHI NOBUKUNI)というデザイナーは、以前に雑誌インタビューで「今期のデザインのシルエットは、ベッヒャー夫妻の写真集(貯水タンクをモノクロで写したシリーズ)が発想源になっている」という趣旨のことを言っていて、ちょっと面白い人だと思った。と同時に、「観念的で前衛的な服飾デザイナー」の、ものすごく分かりやすい紋切り型だとも思った。日本の第一世代のデザイナーたち(川久保玲山本耀司)、アントワープ6、セントマーチン3人衆(特に、クリエーションの前には図書館に行って本棚一つ分くらいの本を調べるというフセイン・チャラヤン)辺りの、直系の末流という感じ。そういうタイプのデザイナーが、ただ感覚的な快さを素直に体現した造形に対して、敗北宣言とも取れる発言をしているのが面白い。
装苑賞は単に装苑賞で、別に国際的なアワードではないし(主催は文化服装学院で、学生等の非専門家ないしプロになってから2年以内の「新人」に与えられる賞である)、正直それ自体は別段のことではない。ただ、自分は明らかにチャラヤンや信國太志のような価値観の中で生きている人間なわけで、だから今回のフツウにキレイな装苑賞作品は、なんだか衝撃的だったのだ。