ミシェル・レリスとピエール・クロソウスキーにおけるテクストとイメージについての研究発表を聞く。発表者はバタイユ周辺の文学者を研究している方で、分析もレリスにおけるエクリチュールの問題に集中していたが、「エクフラシス」や「情念定型」など、自分にとっても示唆的なテーマを含むものだった。

レリスが著作Le Ruban au cou d'Olympiaの中で、架空の絵画を叙述するという試みを行なっていること、クロソウスキーが自らのドローイングにおける身振りの定型的表現の反復を「シミュラークル」と規定していたことなど、数々の興味深いエピソードを知る。

身体の定型的表現という点では、クロソウスキーのドローイングの、彼自身のファンタスムのシミュラークルとしての女性たち(男性に襲われる際の、類似の身振りの反復)も、彼が一時期熱中したという活人画も、通底している。しかし、活人画はファンタスムとしての身体、オブジェとしての身体をリアルなレベル、自らの身体というレベルに引き戻すものであるはずだ。その点がクロソウスキーにおいていかに止揚されているのか、あるいは分裂したままなのかが気に掛かった。

レリスの架空の絵画記述も、ホメロスによるアキレウスの盾の描写以来のエクフラシスの伝統に繋がるものとも言えるだろう。しかし、イメージを語り尽くすことの不可能性に自覚的である点(伝統的な詩画比較論とはまた別の位相で)、そして「私がイメージを語る」のみならず「イメージが私に語りかける」契機をも想定している("ce que m'ont dit les peintures…")点に、レリスの(あるいは彼の時代の)独自性があるのではないかと思う。

いろいろ質問やコメントしたいことはあったのだけれど、周囲がフランス文学畑の人ばかりだったので、気圧されて大人しくしていた。

その後、某学科の学生論文集とそれに付随する研究会の運営についての討議を傍聴。学生間のディスコミュニケーションや、情報共有システムの不備は、どこでも共通の問題らしい。とりわけ「領域横断性」を標榜している学科では、結局のところ従来の研究領域ごとに小グループができてしまい、間領域的な交流がなかなか図れない傾向にあるようだ。同一の学科内でもそうなのだから、学科間の交流や情報共有となるとさらに難しい。個人的な交友関係という、不確実で脆弱なものに依存せざるをえないのが現状だ。なにかもう少しシステマティックな仕組みが構築できるといいのにと思う。