矢代幸雄

日本における西洋美術史研究の嚆矢、矢代幸雄についてウェブ検索していたところ、こんなサイトをみつけた。(InterCommunicationのバックナンバーをオンライン上で公開したもの。リンク先は1996年発行のNo.15。)こちらのページ高階秀爾氏の発言によると、美術史研究で写真による複製の「部分図」を用いたのは、矢代が初めてなのだそうだ。映画史においてクローズ・アップの発明がもたらしたインパクトについては既に様々な言及がなされていると思うが、美術史研究における「部分(拡大)図」がもたらした転換がいかなるものだったのかというのも、ちょっと面白いテーマだと思う。

検索の本題に近いところでこんな論文もみつける。
加藤哲弘「矢代幸雄と近代日本の文化政策」『芸術/葛藤の現場(シリーズ近代日本の知 第4巻』(岩城見一編)晃洋書房、2002年、69-84ページ.
加藤氏のサイトにある論旨紹介によると、「矢代の主張のなかには、その純粋造形論的な見かけにもかかわらず、芸術の社会的機能に対する配慮が見られる。また、対外安全保障やナショナルプライドの確保のために芸術がはたす役割についても興味深い指摘がある。」とのこと。
フランス留学当時の矢代は、松方が絵画購入する際の助言者の役割も果たしていた。もっとも、松方よりふた周り近く若い矢代は当時弱冠三十歳であり、矢代の思想が松方に影響を与えた可能性は少ないだろう。ただ、日本の「近代」において「美術品」という事物、ないし制度にどのような眼差しが注がれていたのかを知る一助にはなるのではないかと思う。

ところで美術品による民衆教化というテーマであるが、既に明治初期には大久保利通が、博物館建設に対する上申書「博物館ノ議」において、「視ること」による国民の啓蒙を通じて殖産興業がなされるべきことを説いている。高橋由一明治10年代半ばには、「展観閣は素より掲列せる真写の画図を以って古今の沿革を示し、人智を進歩せしむるの良場」、「(西洋画は)治術の一助」と書き記している。