日本近代美術史論 (ちくま学芸文庫)

日本近代美術史論 (ちくま学芸文庫)

主に明治期に活躍した画家たち(高橋由一黒田清輝青木繁狩野芳崖横山大観菱田春草富岡鉄斎藤島武二、山本芳翠)、それから当時の美術制度の構築者たち(フェノロサ岡倉天心)が取り上げられている。
気になったのは、岡倉天心を「国際主義者」と規定し賞賛と擁護を試みる姿勢だ。同様の態度は、神林恒道氏の『近代日本「美学」の誕生』(講談社学術文庫、2006年)にも現われている。自分はすべての文献に目を通したわけではないから単なる推測に過ぎないけれど、先見の明ある「国際人」としての天心の称揚は、ある時期の「天心再評価」の機運(=第二次大戦の際の国粋主義者による「誤読」から天心を救い出そうとする試み)に則って書かれた物に共通する身振りなのかもしれない。天心の問題点はむしろ、「インターナショナルなナショナリスト」であるところに存すると思うのだが。天心の「東洋の理想」や「東洋の覚醒」が後代の誤読を招いた理由も、高階氏は天心自身による著作の僅少さに帰しているが、これはあまりにも単純かつ無邪気な割り切りなのではないだろうか。
全体的に、美術を取り巻く「制度」や、そこに存在する(あくまでもミクロなレベルでの)政治性にはほとんど頓着していない点が、むしろ昨今の日本近代美術史を巡る言説の中では珍しく感じられる。前世代の矢代幸雄などと同様、美術や文化という聖域に政治性が介入しうるということ――それも政治権力によるパトロネージ供給やプロパガンダ芸術といった、明白に政治的なスタイルによってのみならず、もっと巧妙に制度化されたかたちで――を、認めたくないタイプの論者なのかもしれない。かかる態度こそが、ある種の政治性を帯びてしまうことになると思うのだけれど。
横山大観が、いかにして西洋の絵画・美術理論の概念を受容していったのかを追究した章は、なかなか面白かった。ちょうど先日届いた雑誌『美學No225』に、大観における「エクスプレッション(感情表現)」概念の摂取と消化を検討した論文(植田彩芳子「横山大観筆《聴法》制作背景としての「エクスプレッション」――画中人物の感情表現をめぐって――」)が載っていたこともあるだろう。この時期の日本の画家たちが、いかに西洋由来の美術概念を受け入れ、変容させ、あるいは無視し拒絶していったのか、興味を惹かれるところである。