肖像画というトポス:似姿の振幅、そして不在者の肖似性の根拠

フィレンツェの商人たちにとって、なかでもとくに貴重だったのは、フランドルの画家たちの「強烈に迫り観察する注意力」によってもたらされた、寄進者とその肖像画との迫真的な類似性だった。奉納物の神秘的な力を信仰していたフィレンツェの人びとはいまだ「原始的」だったのであり、奉納物に似た見まがいようのない本人との一致がその肖像には不可欠だった。ブリュージュにいる間も彼らはサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に自分や身内の蝋人形を捧げることを忘れなかったのである。

田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社,2001,187頁.

このように見てくると、ルネサンス肖像画家たちにとって自明の前提であった個人の容貌の再現は、類型性の伝達と排他的に対立するものでは毛頭なく、むしろ彼らにとっての「個人性」とは、類型化に導く種々の視覚的連想関係を重要な構成要素とする精緻な工作物であったことに、改めて気づかされる。その意味で《アレティーノの肖像》はひとつの虚構に他ならないのだが、これを虚構のイメージと定義するやいなや、われわれはそれと対照されるべき「真実のアレティーノ」のイメージをどこにももっていないことに気づくだろう。ルネサンスの鑑賞者にとって、肖像表現は必ずしも現実との肖似性を基準として測られるものではなかった。ポンポニオ・ガウリコの「ホメロスの真の容貌」という表現が明確に示しているように、ルネサンス肖像画の個人性は「目に見えぬ意想」の修辞的説得性を本質的要素としているのである。

越川倫明「個人性と意想――16世紀の肖像画に関する覚え書き」展覧会カタログ『イタリア・ルネサンス――宮廷と都市の文化展』国立西洋美術館,2001,29〓34頁より33〓34頁.

肖像とは、顔に似せられるがゆえに似ているのではない。むしろ類似(ルサンブランス)は、肖像とともにはじめて存在するようになる。さらにこの類似(ルサンブランス)は、顔がそこには存在せず不在であること、顔が出現するのはまさに不在――それこそが似姿(ルサンブランス)にほかならない――からであることを表出しているがために、ただ肖像のもとでのみ、その成果、栄誉ないし不興になるのだ、と。

Blanchot, Maurice, "L'Amitie", Paris:Gallimard, 1971, p.43.
(邦文引用元はジャン=リュック・ナンシー『肖像の眼差し』岡田温司・長友文史訳,人文書院,2004,29頁.)

肖像は本人(オリジナル)に似るのではなく、本人に似ていることの理念(イデー)に似る。あるいはむしろ、肖像はそれ自体、「原型(オリジナル)」である。

ジャン=リュック・ナンシー,上掲書,39頁.