土曜日の夕方、仕事はちょっと脇に置いて、国立西洋美術館の「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ピュリスムの時代」展へ。ジャンヌレがル・コルビュジエになるまで(1910年代〜30年代初頭)の、オザンファンとの協働関係からキュビスムの影響を経て、初期の代表作サヴォア邸へという流れ。

ジャンヌレ時代の絵画作品をまとまった点数見られるだけでなく、同時代の画家や画商たちとの交流や、絵画作品と建築作品との関係についても浮かび上がってくる展覧会。「豆腐」のような白い立方体の存在感が気になっていた作品、《暖炉》の実物と習作が見られて良かった。

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拙論「世界解釈、世界構築としての建築の図的表現:J. -N. -L.デュランの『比較建築図集』と『建築講義要録』から」がリポジトリ公開されました。2017年と2018年の表象文化論学会大会での口頭発表を加筆修正したものです。

permalinkhttp://doi.org/10.18909/00001907

書誌情報:小澤京子「世界解釈、世界構築としての建築の図的表現:J. -N. -L. デュランの『比較建築図集』と『建築講義要録』から」、『和洋女子大学紀要』第60号、2019年、1-11ページ。

 

遺棄された場所についての覚書

動いている庭

動いている庭

 

  荒れ地の語源についての見解は共通している。1872年刊行の『19世紀世界大辞典』には「グリムが「耕作地」に関係づけた俗ラテン語のfriscumに由来。一度は耕したが、「損なわれ」、駄目になってしまった畑を指す。モリはゲール諸語で放棄された耕地を意味するfrithおよびfritheを提案した」とある。また1983年刊の『ル・プティ・ロベール』では「女性名詞、1251年、古フランス語や方言のfrècheのヴァリアント。中世オランダ語で「新しい」を意味するversh」と説明されている。

 荒れ地という語はほとんどの場合、耕されなくなった土地や、耕されなくなるだろう土地に適用される。この言葉は、野生の丘陵地であれ、高山の切り立った草原であれ、エリンギウムでいっぱいの砂丘の後背地であれ、「自然」と名のつく他のどんな環境を指すためにも使われることはない。そうではなくて、荒れ地はそこから自然も農業も締め出してしまって、ここでもっと良いものをつくれると仄めかしているのだ。

(上掲書、23ページ)

 

さらにクレマンは、2000年にフランス建築研究所で開催された展覧会に寄せられたテクストの抜粋を、自らの考えを示すものとして記している。クレマンによれば「放棄地」とは、生物進化のプロセスにおける生物の営みに満ちた時間であり、再生する土地であって、「見捨てられた土地」という側面からは捉えない、というのが彼らのアプローチである。(以下で引用するのは、「放棄地」についての現象記述、事実認定のレベルでの定義であり、クレマン自身がこのような定義に何か可能性を見出している、というわけではない。)最終的に彼は、「休耕地再生林」という語を挙げ、それが「あらゆる放棄地が森を生み出せることを示す包括的な語彙」としている(上掲書、158ページ)。

 

放棄地

・その身分

 「自然」を冠する空間とは対照的に、放棄地には公認された身分はいっさい与えられていない。放棄地は保護区でもないし、もはや休耕地でもなく、そういった申告された管理システムにまったく対応していない。 

(上掲書、157ページ)

 

J.-N.-L. デュランについての紀要論文のために、昨年8月にTweetしたメモを再掲。

 

テラン・ヴァーグ概念で有名なイグナシ・デ・ソラ=モラレス、J.N.L. デュランについての論文も書いていた☞https://www.jstor.org/stable/1567112 

理性主義(ポリテク)と折衷主義(ボザール)は相反するものではなく、19世紀初頭の西欧では、理論上も実践においても、同一の歴史的プロセスの表裏であるとの主張。

 

 

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渋谷区立松濤美術館の「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」展へ。普段複製で見慣れた廃墟画の実物の筆跡や細部をじっくり検分できたのと、日本の洋画家壇で1930年代に専ら古代ローマ風の廃墟ブームがあったと知れたのが良かった。明治期の古代ギリシア・ローマ熱ともおそらく異なるであろう、西洋古典古代への眼差し。

 

ちなみにこの松濤美術館、設計を手掛けたのは白井晟一だそう。

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東京都写真美術館の「建築×写真 ここのみに在る光」展へ。収蔵品から構成した企画展とのことだが、写真が捉えた建築、写真のみが捉えうる建築について思考を促す、佳作の展示であった。

冒頭に展示されているダゲレオタイプが鏡面のように反射することに驚く。正対したのでは何が写っているのか分からず、下から角度をつけて覗き込むとはっきり見える。

アジェをはじめ、人物や動くものがほとんど写っていない写真が多く(シャッタースピードが遅かった時代の写真は、当然この種の運動は捨象されてしまうのだが)、あくまでも仮初めの無人の静謐さという印象が、技術的な必然によって、あるいは撮影者によるフレーミングによって出現していることに改めて気づく。

ルーヴル宮の壁面をペディメントと同じ高さから写したバルデュスの写真には、私自身何度か訪れたことがあるはずの有名な美術館の細部の装飾が、このようになっていたのかと驚かされた。よく指摘されてきたことであろうが、とりわけ建築のような巨大さを特徴とする対象については、人間の身体と眼では得ることのできない視覚が、写真によってもたらされていることを思い知らされる。

写真は広大な建築物を遠距離から、あるいは高所から一望の元に捉えることを可能にするが(展覧会出品作ではとりわけ宮本隆司による九龍城砦)、他方ではフレーミングやクロースアップによって、ときに直ちには同定できないような細部へと視線を注がせる効果もあるのだということを、渡辺義雄(伊勢神宮)や石元泰博桂離宮)、瀧本幹也ル・コルビュジエ設計の建築)の写真から実感した。

 

売店で展覧会カタログ、『エクリヲ』第9号(特集1:写真のメタモルフォーゼ)、柳宗悦『蒐集物語』、それからマン・レイがモンパルナスのキキを写した《アングルのヴァイオリン》のマグネットを購う。ちょうど自分が大学院時代に触れた写真論の言説では、もはや現在の写真(的な何か)をめぐる状況を掬い取れないと思っていたときだったので、デジタル・サイネージやInstagramiPhoneのLive Photos機能、SNS、自撮りと加工から写真的なものの動画化までを視野に収め、「現在の写真」を思考する言語を紡ぎ出そうとしている『エクリヲ』は示唆になった。

柳宗悦は、ふと目に止まって衝動買い。若い頃にはインテリ上流階級が無名の民衆による「下手物」に逆説的な美を見出す、という「民藝」の図式に批判的だったのだが、もういい歳だしここらで一度虚心に読んでみようかと。それから、美術品・名品であれささやかなオブジェや文房具であれ、誰かが自分の気に入りの物を語っている文章が好きということもあり。瞬時に全体を予備知識を介入させずに見る「直観」の強調や、雑器・民器という言葉遣い、そして至上の茶器が見出されたときは農家で鶏の餌入れになっていた挿話――素晴らしい器は無名の工匠により作られ、無名の民衆の日常に用いられているが、しかしその民衆は器の価値を自覚しておらず、外部から来た「目利き」による再発見が必要なのである――など、「目利きの言説」の一類型としても色々と面白いのだが、それ以上に紹介されている曾我屏風の空間構成に度肝を抜かれた。

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2019年元日 新年のご挨拶

昨年は勤務先の大学でも、所属している表象文化論学会でも責任のある仕事や役割を任され、その間隙を縫ってレジスタンス活動のように研究をする日々だった。しかし、新しい場所での面白い試みに呼んでいただく機会も増え、知的な刺激のシャワーを浴びて、ともすれば「マッチ箱に入れられた蚤」になりがちな自分の思考に喝を入れることもできた。
今年は、自分の思考に形を与える作業(具体的には単著刊行に向けた準備)を、着実に進めていこうと思う。

2018年の業績はこちら。
【分担執筆】
・渋谷哲也編『ストローブ=ユイレ:シネマの絶対に向けて森話社、2018年1月。
【単著論文(有審査)】
・「モダニズム都市と夜の幻想:1920−30年代のイメージとテクストから」、『和洋女子大学紀要』第58号、37-48ページ、2018年3月。
【書評・解説など】
・「シークエンシャルな建築経験と(しての)テクスト:鈴木了二『ユートピアへのシークエンス』ほか」、『10+1 web site(特集:ブック・レビュー2018)』、2018年1月。
・「美術と建築と文学とを越境しながら軽やかに思考を展開:武末祐子『グロテスク・美のイメージ』書評」、『週刊読書人』第3238号、2018年5月 。
・「解説 フィクションにおけるテクノロジーの表象とジェンダー」、『知能と情報』日本知能情報ファジィ学会、第30巻第6号、308-316ページ、2018年12月。
【口頭発表】
・「世界解釈、世界構築としての建築の図的表現:J. -N. -L.デュラン『比較建築図集』を中心に」、表象文化論学会第13回大会(神戸大学)、2018年7月8日。
・「絵画の毒:絵の具の物質性について」、京都大学こころの未来研究センター公開講座「芸術と〈毒〉」京都大学)、2018年9月16日。
・「フランス革命期における偉人とモニュメント:死者の記憶と建築空間」、立教大学文学部主催公開シンポジウム「セレブリティの呪縛:18〜20世紀フランスにおける著名作家たちの肖像」(立教大学)、2018年11月24日。