文学作品から映画への翻案(adaptation):ストローブ=ユイレの手法

あなたの微笑みはどこに隠れたの? [DVD]

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私はテクストを他所に借りに行く方が好きだ。なぜならああしたテクストは私が書けるものより豊かだとわかっているし、テクストは私に逆らうし、私は二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月の間俳優たちにテクストを強制する勇気を持てるからだ。
(ジャン=マリー・ストローブの発言、「魔女と研ぎ屋:ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレとの対話」遠山純生訳、ペドロ・コスタ監督『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』DVD付属ブックレット、紀伊國屋書店、2009年、23ページ。)

だがこれらの初期作品[『マホルカ=ムフ』や『和解せず』]でのテクストの使用法は、その後のストローブ=ユイレの方法と何ら違いはない。オリジナルのテクストからエッセンスとなる箇所のみを取り出して再構成するという方法である。原作テクストは一字一句忠実に台詞化され、監督自身によって独自の場面が創造されることはない。だがそれは原作者[ハインリヒ・]ベルをして映画に自身の作品を見いだせないと困惑させる程の大胆な脚色となってしまう。
[…]
だが根本的なことは、映画のテクストは全て引用であるにもかかわらず、映画独自の構造とコンテクストを生み出している点にある。通常の小説映画化では小説のストーリーの絵解きをすることが脚色だと見なされてきたが、ストローブ=ユイレはそれを拒絶する。
(渋谷哲也「『マホルカ=ムフ』、『和解せず』:ストローブ=ユイレの出発点」、ストローブ=ユイレ監督『和解せず』DVD付属ブックレット、紀伊國屋書店、2008年、28-29ページ。)

[『マホルカ=ムフ』の]原作の『首都日記』は曜日によって小分けされた一人称語りによる日記形式の物語だが、映画は曜日のインデックスを一切省略し、17分間の映写時間を多種多様な映像と音声の断片で満たす。そこでは小説テクストがナレーションや会話となって再現されるだけではなく、ドイツ連邦共和国の首都ボンの風景と路上の音声、オルガンの音楽、軍歌「ああ我が戦友」、再軍備を呼び掛ける新聞記事などが縒り合わさって映画全体を形作っている。映画の各要素はフィクションの物語にすべて回収されてしまうのではなく、様々な出典による視聴覚的素材であることを隠さない。その意味でベルの『首都日記』のテクストは、映画において主要ではあるが一つの構成要素に過ぎない。
(同上、29ページ。)

ストローブ=ユイレ コレクション 歴史の授業 [DVD]

ストローブ=ユイレ コレクション 歴史の授業 [DVD]

観客をフィクションの世界から引き離し、醒めた態度で出来事を客観的に観察させるのは異化効果の手法である。ベルトルト・ブレヒトによるあまりに有名なこの方法論は、ストローブ=ユイレの映画に一貫する特徴でもある。そしてブレヒトのテクスト自体と対決した映画『歴史の授業』は、まさに異化効果の模範的な活用例だと言える。ブレヒト的な異化効果とは、俳優術・演出術により観客にフィクションの構造を自覚させるだけの形式的方法ではなく、そのテクストや上演の持つ思想的・政治的な背景とも緻密に絡み合っている。20世紀前半のファシズム台頭期を生きたブレヒトにとって、ユリウス・カエサルという人物像は恣意的に選ばれた古典改作の素材ではない。歴史上の英雄カエサルの神話を解体する作業によって、現実に世界を覆ってゆくファシズムとそれを支える資本主義の権力体系に向けたアクチュアルな批判的考察が試みられるからだ。このブレヒトの意向をストローブ=ユイレが忠実に受け継ぎ、第二次大戦後のポストコロニアリズムの文脈の中でこの問題を捉え直したのが映画『歴史の授業』である。
(渋谷哲也「受講者を叛逆へと誘うレクチャー『歴史の授業』」、ストローブ=ユイレ監督『歴史の授業』DVD付属リーフレット紀伊國屋書店、2007年、10-11ページ。)

ストローブ=ユイレはこれまでも神話や古典劇を素材に多くの映画を製作している。『オトン』(1969)や『歴史の授業』は古代ローマ、『モーゼとアロン』(1974-75)はユダヤ教始原の古代文明期、『雲から抵抗へ』(1978)の前半はギリシア神話時代、『エンペドクレスの死』(1986)と『黒い罪』(1988)は古代ギリシア時代が舞台となる時代だが、それぞれテクストは17-20世紀の作家(順にコルネイユブレヒトシェーンベルクパヴェーゼヘルダーリン)によるオリジナルであり、古典文学の翻訳テクストではない。そこにオリジナル言語を重視するストローブ=ユイレの志向が見て取れる。[…]『アンティゴネ』は古代ギリシア悲劇の翻訳である。この作品でストローブ=ユイレは自身の信条を変えたのだろうか。
 もちろんそうではない。それは『アンティゴネ』テクストの成立事情にかかわる。たしかにこれは翻訳テクストであるが、そもそもヘルダーリン翻訳語法がきわめて特殊なものである[…]。しかもブレヒトがその言語を忠実に継承しているのは全体の2割程度、さらに3割はやや書き換えた使用である。またオリジナル戯曲から約100行の省略も行なわれ、基本設定においても根幹にかかわる改変が行なわれた。その意味で『アンティゴネ』はまぎれもないブレヒトの作品なのだ。このテクストにおいて興味深いのは、テクストのどの部分が古代ギリシアに遡りうるかではなく、斬新な翻訳言語が現代の顧客に新たな演劇体験をもたらす点である。
(渋谷哲也アンティゴネ:あるいは 早すぎる/遅すぎる抵抗」、ストローブ=ユイレ監督『アンティゴネ』DVD付属パンフレット、紀伊國屋書店、2008年、21-22ページ。)

そもそも翻訳とは突き詰めれば不条理な行為である。一つの言語体系のあらゆる要素を忠実に別の言語に移すことなど不可能だ。翻訳には意味や語法におけるずれや欠落が必ず含まれる。すなわちある言語の中に別の言語体系の異質性が内在する。徹底した逐語訳を進めることによって一つの言語の中の多層性が強調されてゆく。こうした特異な翻訳言語に対峙させられることで、観客や俳優自身の言語慣習は根底的に問い直されるだろう。それがヘルダーリンブレヒトの翻訳法の持つラディカルな異化効果である。
(同上、22ページ。)

映画とは何か(上) (岩波文庫)

映画とは何か(上) (岩波文庫)

田舎司祭の日記』では、俳優はせりふに合わせて演技することも――そもそもせりふの文学的な言い回しが演技を不可能にしているのだが――、せりふを体で表現することも求められず、ただせりふをいうことだけが求められたのだ。だからこそ、画面外から聞こえてくる「オフ」の言葉[ナレーション]と登場人物が実際に口にするせりふがあれほど自然につながっているのである。スタイルをとってもトーンをとっても、両者のあいだに本質的な違いは一切ない。こうした演出法は俳優による演劇的な表現と対立するだけでなく、あらゆる心理的な表現の豊かさとも対立する。私たちが俳優の顔から読み取るべきなのはせりふの瞬間的な反映ではなく、存在の不変性であり、精神的な運命にかぶせられた仮面なのだ。
アンドレ・バザン「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」、『映画とは何か』上巻、岩波文庫、193ページ。)

心理的描写と劇的な要素をこうして減らしていく試みの中で、ブレッソンが二種類の純粋な現実を弁証法的に突き合わせていることについても述べておきたい。すでに指摘したように、一方にはあらゆる表現上の象徴を取り除かれた俳優の顔がある。それは表皮そのものとしてありのままの自然に囲まれている。他方には「書かれた現実」と呼ぶべきものがある。というのも、ベルナルノスの原作に対するブレッソンの忠実さ、つまり脚色を拒否するだけでなく、逆説的なやり方で原作の文学的な性格を強調しようとする姿勢は、結局のところ人物や背景に対する彼の態度と同じだからである。ブレッソンは登場人物を扱うのと同じように小説を扱う。ブレッソンにとって小説は生のままの事実であり、与えられた現実であって、状況に合わせて書き換えたり前後のつじつまを合わせるために手を加えたりするべきでなく、反対にありのままの姿で認めるべきものなのだ。ブレッソンは原作の文章を削ることはあっても、決して要約することはない。なぜなら一部を削っても元どおりの小説の断片が残るからだ。大理石の塊がもともと石切り場から切り出されてきたように、映画の中で読み上げられる言葉は小説の一部であり続けている。
(同上、198ページ。)

田舎司祭の日記』では、忠実さと創造性の弁証法が最終的には映画と文学の弁証法にまで行き着いている。そこではもはや、どれほど忠実で巧妙なやり方であっても原作を翻訳することは問題ではないし、いわんや、原作の分身となるべく愛ある尊敬をもって原作から自由にアイデアを汲むことも問題ではない。小説の上に映画によって第二次の作品を作り上げることが重要なのだ。『田舎司祭の日記』は小説に「匹敵する」作品でも小説に「ふさわしい」作品でもなく、映画を掛け合わされた小説とでもいうような、新たな美学的存在なのである
(同上、209-210ページ。)

個人的にブレッソンの『田舎司祭の日記』で興味を惹かれるのは、「文字を書き綴る手(ナレーションの声よりはるかに遅い)」と「書かれつつある/書かれゆく文字」のクロースアップが何度か挿入される、あの場面なのだが、バザンのブレッソン論では特に言及されていないようだ。

  • 演劇と映画/演劇から映画へ

映画とは、どんなアクションも空間的に自由であり、そのアクションを見る視点も自由に移動できることだとすれば、演劇を映画に撮るのは、舞台では物理的に再現できない奥行きや現実性をセットに与えることになるだろう。[…]演劇の筋の時間感覚は、映画の時間感覚とは明らかに異なったものだ。また、演劇ではせりふが重視されるとしても、映画ではカメラが背景にもドラマ的要素を付加することがあるため、せりふの重要性は相対化される。そしてとりわけ、演劇の舞台装置が示すある種の人工性、過度の象徴表現は、映画に本来備わっているリアリズムとはまったく両立し得ないものであるモリエールのせりふが意味をもつのは、書き割りの森の中でこそなのだ。俳優たちの演技も同じである。フットライトの光は秋の太陽の光とはまったくの別物だ。極限すれば、薪拾いの場面は幕の前では演じることはできても、本物の木の根元ではありえないのである。
アンドレ・バザン「演劇と映画」、『映画とは何か』上巻、岩波文庫、233-234ページ。)

演劇は人間がいなければありえないものだが、映画におけるドラマは俳優なしでも成り立ちうる。バタンと閉じる扉や風に舞う木の葉、浜辺に打ち寄せる波、これらはそれだけでドラマチックな力をもちうるのだ。映画の傑作には、人間を付随的な存在としてしか用いていないものもある。つまり端役、あるいは真の主役である自然の添え物という存在である。
(同上、260ページ。)

それ[演劇]に対し、映画では事情が異なる。映画の原理はアクションのあらゆる境界線を否定する。演劇的な場の概念は、スクリーンの観念とは異質であるどころか、本質的に対立する。スクリーンとは絵画における額縁のような枠ではなく、出来事の一部しか見せることのない、いわばマスク〔合成画面を作る際にネガフィルムの不要部分を隠す紙〕なのである。登場人物がカメラのフレームからはずれると、私たちはその人物が視野から消えたのだと理解はするが、その人物はセットの別の場所、私たちからは隠された場所にそのまま存在し続けているのである。スクリーンには舞台裏がない。舞台裏をもつならば、ピストルや表情のクローズアップを世界の中心そのものにしてしまうような映画に固有の魔術を否定することになる。舞台の空間とは対照的に、スクリーンの空間は遠心的なのである。
(同上、266ページ。)