鏡について

書くことは、読者を予想し、先取りすることなしには不可能である。作家がこうして先取りしようとする読者は、しかし、決して真の他者ではありえない。それはまさしく鏡のなかの自分、このイマージュでしかないだろう。それゆえに彼は真の他者(《きみたち》)をそこに現前させようとして、百面相を試みる。すきをみせ、いらだたせ、かくれ、保留をつけ、証明し、居直り、反駁し、虚をつき……だが空しい。他者とはわたしがわたし[傍点]として語りかけうる存在だが、しかし、この他者が他者でありうるのもまた、彼がわたし[傍点]として答えうることによってである。わたし[傍点]のこの確かさ、いわばこのコギトの明証性、それのみが真に語ることを可能にし、対話を成立させるだろう。だが鏡のなかの自分を前にして、われわれはこの明証性、この可能性を失わずにはいないのだ。
宮川淳『鏡・空間・イマージュ』第2版、美術出版社、1968年(初版1967年)、42ページ。)