ボードレール『現代生活の画家』(初出1863年)収録のエッセイ「化粧礼讃(Eloge du maquillage)」より

ゆえに流行[ルビ:モード]とは、人間の脳髄の中で、自然な生命がそこに積み上げる粗野なもの、地上的なもの、不潔なものすべての上に浮かび残る、理想への嗜欲への一つの徴候、あるいは自然に加えられた崇高な変形、あるいはむしろ、自然の形を改善するために絶えず継起的に行なわれる試みであると、見なされるべきである。
シャルル・ボードレール『現代生活の画家』阿部良雄訳、『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、1999年、202ページ。)

われわれの時代が俗に化粧[ルビ:マキアージュ]と呼んでいるものに話を限るとしても、おめでたい哲学者たちによってかほど愚かしくも擯斥されている白粉の使用というものは、狼藉者の自然が顔色の上にまき散らしたありとあらゆる汚点を消し去り、皮膚の肌理と色の中に一つの抽象的な統一を創り出すことを、目的ともし結果ともしており、この統一こそは、肉襦袢[ルビ:タイツ]によって産み出される統一と同じく、人間をたちまち彫像に近づける、すなわち神々しくて一段上の存在に近づけるのであるということは、誰の目にも明らかではないだろうか?
(同上、203ページ。)

・トマス・カーライル『衣服哲学』1838年より「着衣の世界」

モンテスキューが『法の精神[Spirit of Laws]』を著したように、と我が教授[主人公トイフェルスドレック]は言う「そのように私は『衣服の精神[Spirit of Cloth]』を著すことができるだろう。そうすれば我々は『法の精神[Esprit des lois]』すなわち本当を言うならば、『慣習の精神[Esprit des coutumes]』とともに、『衣服の精神[Esprit des costume]』を持つに至るであろう。というわけは、裁縫においても立法においても、人間は単に行き当たりばったりでやっていくのではなく、手は常に心の神秘的なる作用によって指導されるからである。人間の凡ての流行と、服飾的努力との中には、構成的観念が潜んでいることが見出されるであろう。彼の肉体と服地とは、その上にまたそれによって、個人という美しき建物が建てられるべき地所であり材料である。
(カーライル『衣服哲学』石田憲次訳、岩波文庫、2004年、52ページ。旧漢字・旧仮名遣いおよびモンテスキュー著作の邦題は、現代通用しているものに改めた。)