アンドロギュヌスの宇宙

アンドロギュヌスの宇宙

【構成】
「唯美主義とアンドロギュヌスデカダン派のアンドロギュノスにおける美の原理」F. モネイロン
「現代のアンドロギュヌス」F. モネイロン
アンドロギュヌスと闇夜」J. リビス
アメリカ文学におけるアンドロギュヌス」F. モネイロン
「書くこと[エクリチュール]における両性具有にして神話的な「われわれ」」H. ド・ブロックヴィル
アンドロギュヌス:批判的神話」M. シュナイダー
「愛のおおいなる秘密」J. ケレン
「両性具有、あるいは巧妙なるペテン:自己批判」A. ロジェ

19世紀末の唯美主義者たちにとって、重要な形象であり概念であった「アンドロギュヌス」についての考察。巻頭に収められたモネイロンの論考では、イギリスのウォルター・ペイター、オスカー・ワイルド、そしてフランスのペラダンによる両性具有礼讃が触れられている。
ワイルドはオクスフォード大の教師であったラスキンやペイターの美学に影響を受けつつ、自然の束の間の美を定着させ、完全性への到達としての美を求めた。その具現の一つが、アンドロギュヌスなのである。

また彼の美学は、自然伸びがそれ自身で一体のものとして、不動不滅の総体として見えるように求める。[…]そして自然のこの完全さは、彼の一連のアンドロギュヌスたちの完璧な容姿に最高の規定を見いだしたと思われる。しかしながら、ペイターの美学にインスピレーションを得たワイルドの美学は、観念論的な、美そのものについての美学ではない。それとはまったく反対に、ワイルドの美学は現象世界の中に美を探し求める。そして、現象と欲望の世界のただなかで、アンドロギュヌスに象徴される美そのものの理念をもっとも適切に具現化しているもの、それが女性的な青年であるとされる。こうした青年の姿を通して、美の表れは存在の重みを獲得しているのである。
(上掲書、13ページ)

19世紀末のフランスにおいてアンドロギュヌスを批評的に論じたのは、もっぱらペラダンなる人物である。
※追記:ペラダンの著作はPDFデータがオンライン上に掲載されている。
『死せる学問の階段講堂(Amphithéâtre des sciences mortes, tome II, Comment on devient fée : érotique)』1892年
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k81592q
アンドロギュヌスについて(De l'Androgyne. Théorie plastique)』1910年
http://www.editions-allia.com/files/pdf_111_file.pdf
c.f. La Philosophie de Léonard de Vinci d'après ses manuscrits, 1910(モネイロンの引用する講演原稿とは別の論考)
http://ja.scribd.com/doc/64678481/PELADAN-La-Philosophie-de-Leonard-de-Vinci-d-apres-ses-manuscrits

(著者モネイロンの整理によれば)アンドロギュヌスはなによりも「芸術上」の価値を有する。自然の創造物である女性の上位に、自然を超えた存在として芸術の創り出したアンドロギュヌスが位置するというのである(『死せる学問の階段講堂』1892年)。そしてかかるアンドロギュヌスを、レオナルドやバーン=ジョーンズ、シメオン・サロモンらの男性像のうちに見いだす。1910年にフィレンツェで行なったレオナルドについての講演でも、ペラダンはアンドロギュヌスが「芸術的な性」であると宣言している。すなわち、「男性性と女性性の両原理を混ぜ合わせ、調和させた」ものであるというのである。また『アンドロギュヌスについて』では、西洋美術史に現れ出た両性具有を辿りつつ、美しさは性的総合ないし性差の超越にあると説く。「美しいということは第三の性に属」する。

男性の美しさは、言葉では言い表しがたいけれども識別はできるほどの割合で、男性が女らしさの一部を備えていることにある。女性の美しさは、同様の割合で女性が男らしさの一部を備えていることにある。男性の髭や女性の妊娠した腹がこうした理想の身体にそぐわないのは一目瞭然である。
(上掲書、22ページ)

ペラダンが考える男女それぞれの性の不完全さとは、男女の性差であり、従って理想の容姿のプロトタイプは、第二次性徴の未だ希薄な思春期の男女となる。また、ペラダンはキリスト教的道徳価値と同時代の唯美主義議論を結合させ、アンドロギュヌスを天使と同一視し、貞潔さを重要視する。

興味深いことにペラダンは、かような調和を古代ギリシア人(より正確には古代ギリシア彫刻)に見出す。彼によれば、古代ギリシア彫像においては男性像はすべて女性を思い起こさせ、女性像は男性を想起させる。古代ギリシア人は「もっとも総合的な精神の持ち主」であり、不均整なものへの嫌悪が調和への欲求を産出した、というのである。

古代ギリシアの人体美への崇拝は、ペイターにあってはヴィンケルマンの系譜を引く。彼は1868年に、ヴィンケルマンについての評論を寄稿している(『ルネサンス』収録)。

モネイロンの結語によれば、美は女性の本質に属すが、しかしより強烈な美的感覚を喚起せしめるのは男性である、という発想が西洋の心性には深く根付いており、(プラトン的な両性の完全調和ではなく、19世紀末デカダンスにおける女性的青年美という意味での)アンドロギュヌスもまたその顕われである。そして、掛かる形象が明示的に意識に上るのは、異教古代への回帰が目される時代が到来したときなのだ。

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「男性美」の系譜については、まずは2013年度冬学期の講義「デザインと身体」の一回分を当てて考えてみたいと思っている。とりあえず浮かんだのは、ヴィンケルマンの求めた古代ギリシア彫刻のイメージ、19世紀末唯美主義の両性具有幻想、世紀転換期のボディビルダーたちと医学写真の関わり、ダンディズムをめぐる議論、アドルフ・ロースの男性モード論(装飾の去勢)、アン・ホランダーの『性とスーツ』……という流れ。
コンテンポラリー・ファッション(と言っても、既に歴史化されつつある部類だが)における男性イメージは、だいたい次のように分類できるのではないか? つまり、セクシュアル系(ゴルチエヴェルサーチドルチェ&ガッバーナなど。日本ではV系、ヤクザ系、お兄系などに独自のトライブ進化を遂げた)、メリトクラティック・エグゼクティヴ系(ラルフ・ローレンなどアメリ東海岸プレッピー系、エルメネジルド・ゼニア)、アセクシュアルなモード系(ヨージ、マルジェラ、エディ・スリマンetc.)。メリトクラティック・エグゼクティヴ系とは、社会的階層を衒示するような「記号性」重視のファッションではあるけれども、旧体制下の貴族や19世紀的ブルジョワジーとは決定的に異なり、個人の能力によって獲得された社会的地位と経済力を背景としている、という意味合いの(勝手な)造語である。