欲望の対象、模倣の範型としての男性身体:J.J. ヴィンケルマンと三島由紀夫における男性美

講義や論考の準備のために、昨冬オルセーで開催されたテーマ展『Masculin/Masculin』図録(http://www.boutiquesdemusees.fr/fr/boutiques/musee-orsay/masculin-masculin/6224.html)に収められたC. Dantzigの論考、「偉大な不在:文学における男性裸体」に目を通す。彼によれば、「作家の身体はヌードによって英雄化される」。さらに著者は「ポルノグラフィーは身体の分割に執着する」と規定した上で(これ自体はラカンがサドを論じて言う「断片化された身体」の継承だろう)、三島の『仮面の告白』における美学化(esthétisation)が、ポルノグラフィーの形態をとると指摘する。ここでDantzigが例として挙げるのが、仲間内の中で図抜けて性的に成熟した身体を持つ青年、近江の腋窩と体毛をクロースアップした描写である。

それほど夥しい・ほとんど不必要かと思われるくらいの・いわば煩多な夏草のしげりのような毛がそこにあるのを、おそらく少年たちははじめて見たのである。それは夏の雑草が庭を覆いつくしてまだ足りずに、石の階段にまで生いのぼって来るように、近江の深く彫り込まれた腋窩をあふれて、胸の両わきへまで生い茂っていた。この二つの黒い草叢は、日を浴びてつややかに輝き、そのあたりの彼の皮膚の意外な白さを、白い砂地のように透かしてみせた。
三島由紀夫仮面の告白新潮文庫、1950年(第119版:1998年)、66ページ。)

この論考は「文学的伝統における男性の裸体表象」についての網羅的な概論という性質が強く、三島についても深く切り込んで考察する前に別のトピックに移行して終わってしまうのだが、この「フレーミング」ないし「クロースアップ」の視線に着目したところは面白い。実際、主人公の最初の具体的な(男性同性愛的)恋慕の対象となる美丈夫・近江の容貌はしばしば、ペトラルカによるラウラやサドによる嗜虐の犠牲たちの身体に似て、部分ごとに腑分けされるかのように描き出される。

つまり私は彼から引き出したのだった。およそ生命の完全さの定義を、彼の眉を、彼の額を、彼の目を、彼の鼻を、彼の耳を、彼の頬を、彼の頬骨を、彼の唇を、彼の顎を、彼の頸筋を、彼の咽喉を、彼の血色を、彼の皮膚の色を、彼の力を、彼の胸を、彼の手を、その他無数のものを。
(三島『仮面の告白』55ページ。)

次いでDantzigはダンヌンツィオが浜辺で写した「女性化された」ヌード写真に言及し、そこに「コミカルなもの」を見出している。しかし「コミカルさ」という性質は、三島が聖セバスティアヌスに扮した活人画的写真(篠山紀信撮影、『血と薔薇』掲載)にも、その妙に肩に力の入った唯美主義的な装いにも関わらず(というか、むしろだからこそ?)、拭い難く付きまとっているように思う。

ここからはDantzigを離れて、三島のテクストの分析へ。肉体の外面を、外面の美こそを言祝げ、というのは、『アポロの杯』の古代ギリシア礼讃にも『仮面の告白』の成熟した美しい肉体を持つ青年・近江への賛美にも共通して登場する思想である。近江はイオニヤを郷国に持つ漁夫に、また聖セバスティアヌスは(ヴィンケルマンも称揚した)アンティノウスに準えられる。言うまでもなくここには、ヴィンケルマン流の古代ギリシア的身体への幻想と欲望とが引き継がれているであろう。『仮面の告白』では、セクシュアルな欲望の対象(労働・戦闘する身体を持つ若い男、ないしは彼の英雄的な死に様)に対して、「自分も彼になりたい」という同一化あるいは投影の願望の吐露が繰り返される。そしてヴィンケルマンもまた、古代ギリシアの理想的男性身体を、18世紀ドイツ民族の男性において「模倣」することを説いたのであった。

汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。
(三島『仮面の告白』11ページ。)

私の肩がいつか近江の肩に似、私の胸がいつか近江の胸に似るであろうという期待を、目前の鏡が映している・似ても似つかぬ私の細い肩・似ても似つかぬ私の薄い旨に無理強いに見出だしながら、薄氷のような不安は依然私の心のそこかしこに張った。それは不安というよりは一種自虐的な確信、「私は決して近江に似ることはできない」と神託めいた確信だった。
(三島『仮面の告白』70-71ページ。)

われわれが偉大に、そして可能ならば、模倣しえない者となる唯一の手段は、古代人たちの模倣にある。
(ヴィンケルマン『ギリシア美術摸倣論』16ページ。)


仮面の告白』主人公の「性的欲望の対象に似たい」という欲望は、アンドロギュヌス(両性具有)志向とも近接することとなる。

元禄期の浮世絵には、しばしば相愛の男女の容貌が、おどろくべき相似でえがかれている。希臘彫刻の美の普遍的な理想も男女の相似へ近づく。そこには愛の一つの秘儀がありはしないだろうか? 愛の奥処には、寸分たがわず相手に似たいという不可能な熱望が流れていはしないだろうか?
(三島『仮面の告白』71ページ。)